「関ヶ原の戦い(1600年)」をおさらい! 豊臣後継権力をめぐる天下分け目の東西大戦
- 2023/10/27
この起源のひとつは、言わずと知れた慶長5年(1600)の「関ケ原の戦い」にあると考えられています。「天下分け目」といえば関ケ原の戦いのことであり、戦国時代を含む中世から近世への転換点のひとつとして、日本史における大きな画期として有名です。
周知の通り、関ヶ原の戦いは豊臣と徳川の決戦でもあり、家康が300年におよぼうとする太平の世を築く礎となった戦でもありました。全国を巻き込んでの大戦であったため、その前哨戦や局地戦を含めるとおびただしい戦闘がありましたが、本コラムでは関ケ原で行われた本戦にフォーカスしてその概要をみてみることにしましょう。
秀吉亡き後、権力増大をはかる家康
慶長3年(1598)8月、秀吉が没すると、その遺児である豊臣秀頼の後見として、五大老が政務を代行する体制となりましたが、これは名目上のことでした。実際には筆頭格の徳川家康が暗躍。最初から秀吉の遺命に背く形で伊達氏・加藤氏・福島氏・蜂須賀氏らと姻戚関係を結ぶなど、政権内部でのポジションと発言権を固めていきます。慶長4年(1599)の潤月、同じく五大老で豊臣氏の重要人物であった前田利家が逝去したタイミングにおいて、石田三成の反対勢力の不満が噴出。三成が加藤清正・黒田長政ら七武将の襲撃を受け、佐和山に退避するという、事件が起こりました。(石田三成襲撃事件)
さらに中央では家康を排除しようとする動きもあり、家中での大名同士の関係性にも緊張感の高まりがみられます。家康と険悪な関係になっていた五大老の一人、上杉景勝が7月に帰国すると、それに続くように前田利長(利家の息子)、宇喜多秀家、毛利輝元ら他の大老も帰国。京・伏見には家康と三奉行の前田玄以・長束正家・増田長盛のみが残る状態となりました。
同年9月27日、家康は大坂城西の丸へと入城し、豊臣秀頼の周辺勢力を牽制しつつ、伊達氏・福島氏・最上氏・藤堂氏・黒田氏などの有力大名への働きかけを行います。これは家康自身の立場の強化を目的とした工作でした。作成した書状は判明しているだけでも、実に180通を超えています。
また、同年から翌年にかけての島津家中の内乱である、庄内の乱(1599)にも家康は介入しており、その調停を大義名分として九州勢力のほとんどを軍事動員するなどの動きもみせているのです。
このように秀吉の死後、豊臣政権の権力バランスは急速に崩れていったのです。
会津征伐(上杉征伐)と石田三成の挙兵
会津征伐(上杉征伐)
慶長5年(1600)1月、家康は上杉景勝に上洛を促しますが、領内の仕置などを理由として景勝はこれを拒否。このことから会津遠征軍派遣を決定し、三奉行の反対を押し切る形で6月18日に伏見を進発しました。(会津征伐) 家康は7月2日に江戸城到着、同7日に軍令を発し、13日に榊原康政隊が先発。21日には家康も江戸城を発し、同24日に下野小山(現在の栃木県小山市あたり)に至りました。
石田三成の挙兵
いっぽうで、石田三成は家康が近畿を離れたこのタイミングを逃さずに反家康の狼煙を挙げ、大谷吉継の協力を得て挙兵。毛利輝元を総大将とする「西軍」編成へと動き出します。前田玄以・長束正家・増田長盛ら三奉行の連名で家康弾劾の書状を出したのが7月17日で、檄文とともに諸大名に参集を呼びかけました。
これに応じた主な大名は以下の通りです。
- 毛利秀包
- 吉川広家
- 小早川秀秋
- 宇喜多秀家
- 生駒親正
- 脇坂安治
- 蜂須賀家政
- 長宗我部盛親
- 小西行長
- 島津義弘
- 島津豊久
- 福原長堯
- 毛利高政
- 鍋島勝茂
- 立花宗茂
- 高橋元種
- 高橋直次
- 秋月種長
- 相良頼房
この勢力は総勢約9万3700におよび、7月19日に家康留守居の鳥居元忠が守る伏見城を包囲し、8月1日にこれを攻略。並行して7月22日からは東軍につくことを選んだ細川幽斎の丹後田辺城を攻撃しましたが、同年9月13日の勅命講和まで攻略することはできませんでした。
伏見城を落とした石田三成は8月9日、美濃国垂井へと進軍し、同11日に大垣城に入城しました。この間に岐阜城主の織田秀信を豊臣方に引き入れましたが、この人物は「三法師」の幼名で知られる織田信長の嫡孫でもありました。
小山評定
一方の家康は下野小山に在陣中、上方での異変の報に触れてこれを諸将に通知。といった軍議、いわゆる小山評定において、豊臣と徳川どちら側につくかという去就も各人に一任するとしました。
しかし徳川方についていた福島正則の発言により、石田三成征討の方針が決せられます。諸大名にとっても、どの勢力に与するかということは一族の命運を左右する問題であったため、豊臣から徳川へと方向転換を選択する家中も多くありました。
なかでも有名なのが遠州掛川城主であった「山内一豊」の対応です。内助の功でもよく知られる武将ですが、このとき一豊は自身の城を家康に明け渡して合力を表明しました。
東軍に与した徳川譜代の将以外での、主な大名は以下の通りです。
- 浅野幸長
- 池田輝政
- 織田長益(有楽斎)
- 加藤嘉明
- 金森長近
- 黒田長政
- 竹中重門
- 藤堂高虎
- 福島正則
- 古田織部
- 細川忠興
- 細川幽斎
- 堀尾忠氏
- 柳生宗矩
- 山内一豊
- 真田信幸
- 最上義光
- 伊達政宗
- 前田利長
- 九鬼守隆
- 黒田官兵衛
- 加藤清正
- 佐竹義重
これらのメンバーをみると、いわゆる豊臣恩顧の武将や秀吉の一門衆など、豊臣政権での重臣が目立つことがひとつの特徴とされています。豊臣家そのものへの恩義はあっても、現政権の中心となる石田三成らへの反発や朝鮮出兵の折の軋轢が大きく影響したとも考えられています。
各地での前哨戦・局地戦
尾張国清洲周辺に集結した東軍先鋒の福島正則隊・池田輝政隊は8月22日、岐阜城への攻撃を開始。翌日には岐阜城が陥落し、城主の織田秀信が降伏しました。福島・池田隊はそのまま犬山城(現在の愛知県犬山市)も攻略し、周辺に展開していた西軍を撃破したため、石田三成は美濃・大垣へと退却しました。
以下に、その他の各地での戦闘経緯の概要のみを列記します。
北陸・甲信越方面
- 大聖寺城……家康に応じた前田利長が大聖寺城(現在の石川県加賀市)の山口宗永を攻略。越前侵攻を企図するも身内の反対により、金沢に後退
- 上田城……別ルートで関ヶ原決戦に合流予定だった徳川秀忠隊が、真田の上田城を攻めるも、陥落することができず、その後の決戦にも間に合わず。
伊勢方面
- 阿濃津城……8月25日、阿濃津城の富田信高が西軍の攻撃を受け、敗北
- 長島城………福島正頼が西軍の攻撃を食い止めるも、家康西上の報を受けた西軍は美濃に主力を派遣
- 松阪城………古田重勝が西軍の攻撃を受け、和睦を乞う。
近畿方面
- 大津城………西軍の京極高次が密かに東軍に通じ、立花宗茂らの部隊約1万を関ケ原決戦の9月15日まで足止めする
関ケ原決戦地までの家康西上経路
8月下旬に行われた東軍先鋒の福島隊・池田隊の作戦行動を確認した家康は、9月1日に江戸を進発して同11日に尾張国清須に着陣しました。 美濃大垣城に布陣していた西軍は家康到着の報に接するや、将士の士気を鼓舞するためとして石田三成家臣の島左近と蒲生郷舎らが9月14日に杭瀬川(岐阜県を流れる木曽川水系の河川)対岸の東軍・中村一栄隊および有馬豊氏隊を挑発。この策に乗って深追いしてきた東軍部隊に打撃を与えました。
同日の夜、西軍は家康が美濃・大垣城を無視して石田三成本拠の近江・佐和山城を攻略するという情報を得ます。そのため、大垣城には福原長堯隊約7500を守備として残し、折からの大雨をついて南宮山(現在の岐阜県大垣市・不破郡垂井町・関ケ原町・養老郡養老町:標高約419メートル)の南方を迂回し、関ケ原への先回りを企図しました。
東軍本隊も西軍のこの動きを察知し、家康は諸隊に向けて関ケ原への進撃を命じ自らも決戦場へと向かいます。関ケ原で先に部隊展開を完了したのは西軍の方で、その布陣は以下の通りです。
- 天満山(中心地)……宇喜多秀家隊
- 天満山と並列…………大谷吉継隊・戸田重政隊・木下頼継隊・平塚為広隊
- 笹尾山(北方)………石田三成隊
- 笹尾山の南……………島津義弘隊・小西行長隊
- 松尾山(南方)………小早川秀秋隊
- 松尾山の麓……………脇坂安治隊・朽木元網隊・小川祐忠隊・赤座直保隊
- 南宮山(南西遠方)…毛利秀元隊・吉川広家隊
東軍の先鋒が関ケ原に到着したのは慶長5年(1600)9月15日の明け方のことで、ただちに丸山(岡山:現在の関ケ原町)から関ケ原西端にかけて部隊を展開。家康は関ケ原東南部の桃配山に本陣を定めました。
関ケ原の決戦(9月15日)
決戦の経緯
東西両部隊が展開を終えた同日午前7時過ぎ、東軍の松平忠吉・井伊直政が福島正則隊方面から、西軍の宇喜多秀家隊に攻撃を仕掛けたことで戦端が開かれました。松平・井伊隊の動きに呼応して福島隊も射撃戦を展開し、宇喜多隊も激しく応戦しました。松平・井伊隊はその後西軍の小西行長隊を攻撃。東軍の藤堂高虎・京極高知隊は大谷吉継隊に攻めかかり、これに寺沢広高隊が合流しました。東軍3隊からの集中攻撃を受けた大谷隊でしたが、精兵と巧みな戦術で奮戦しました。
総大将ではありませんでしたが事実上西軍の首魁ともいえる石田三成の元へは、黒田長政・細川忠興・加藤嘉明・田中吉政・金森長近らの各隊が殺到。東軍が一時的に優勢となりましたが石田隊もよく応戦し、戦局は互角の様相を呈していました。
同じ頃、東軍・福島正則隊は宇喜多秀家隊の反撃にあって退却しかけていましたが、叱咤しながら戦う正則によって旧来の前線まで復帰することに成功。各所で激戦が繰り広げられました。
石田三成はかねての作戦通り、天満山に狼煙を上げることで松尾山に布陣していた小早川秀秋隊、南宮山に布陣していた毛利秀元・吉川広家隊に進撃の指示を出します。
しかし、この秀秋と広家はすでに東軍と通じており動かず、秀元も結果として西軍の支援に出撃しませんでした。予定していた打撃群を欠いた西軍と、東軍の戦闘は正午を迎えても趨勢が決せず、家康は内応の約定を果たさせるため小早川秀秋の布陣する松尾山に向けて威嚇の一斉射撃を行いました。
家康の強圧的な督戦に小早川隊はついに参戦、西軍を裏切っての攻撃命令を下し、大谷吉継隊に攻めかかりました。吉継はあらかじめ秀秋の離反を予測していたため、迎撃の兵力を繰り出してこれをよく防ぎましたが、同じく西軍の脇坂安治・小川祐忠・赤座直保・朽木元網らも寝返り、各隊の攻撃にさらされてついに大谷隊は壊滅します。
次いで西軍の小西行長隊・宇喜多秀家隊も敗北し、防戦を続けていた石田三成隊もこの報に接したのち壊滅。三成は伊吹山(現在の滋賀県米原市・岐阜県揖斐郡揖斐川町・不破郡関ケ原町)方面へと敗走しました。西軍・島津義弘隊は最後まで動きがありませんでしたが、敗戦によって孤立状態となり、東軍・松平忠吉隊の追撃を受けながら敵陣中央を強行突破しました。
有名な「捨てがまり」の戦術を駆使したのがこの時で、最後尾の部隊が死兵となって全滅するまで追撃を食い止め、さらに次の部隊が繰り出して同じことをするというものでした。文字通り捨て身で全体を生かす、苛烈な戦法として知られています。
薩摩勢はこの方法で大将の島津義弘を帰還させることに成功、その甥にあたる島津豊久は討ち死にしました。
南宮山に布陣していた西軍部隊には長束正家・安国寺恵瓊・吉川広家がいましたが、行動できないうちに各隊の敗報が届き参戦しないままに勝敗が決していました。
石田三成が一時本拠とした美濃・大垣城では、秋月種長と相良頼房が同志のはずの熊谷直盛・垣見家純・木村勝正らを襲撃して東軍に投降。関ケ原の戦いは徳川家康率いる東軍の勝利に終わりました。
コラム:東軍と西軍の兵力差について
ここで、関ケ原の戦いにおける東軍と西軍の兵力がどのような規模だったのかを、改めてみてみましょう。一般には開戦当初はほぼ互角か、あるいは西軍の方が数で上回っていたということがいわれますが、実際には確実な兵力数はわかっていません。ただし注意が必要なのは、関ケ原南東部に位置していた南宮山の兵力を計上するかどうかという点です。
ここに東軍守備隊が約2万、西軍守備隊が約3万の規模で展開していました。これをそれぞれに加えたうえで開戦当初の兵力を理論値で概算すると、
- 東軍……約9万7,000
- 西軍……約7万8,000
という数になります。
もちろん諸説あるため、あくまでも推定値の一例ではありますが、初期の西軍優位というイメージには再考の余地がありそうに感じられます。
さらには、西軍から東軍へと寝返った兵力が相当数存在したことも重要です。先述の通り、小早川・脇坂・小川・赤座・朽木などの各隊が西軍攻撃に回り、南宮山守備の長束・安国寺・吉川隊は参戦しなかったため、最終的な両軍の兵力概算は、
- 東軍……約11万8,000
- 西軍……約3万
とする説が例示されています。
このように、数的優位という観点からも東軍は大きくリードしていたことになり、むしろ西軍の精強さが際立つ結果とも受け取ることができるでしょう。
戦後
関ケ原で勝利した家康は三成の本拠である近江・佐和山へと進軍。西軍総大将の毛利輝元と和談して大坂城から退去させ、これにより全国各地に波及していた戦闘も終息に向かいました。石田三成は9月21日に伊吹山中で捕縛され、のちに小西行長・安国寺恵瓊らとともに京の六条河原で処刑されました。以降、家康は諸大名の領地再分配を行い、旧敵対勢力の抑えと配下の論功行賞などを実施しました。それは大規模な転封を伴うものであり、全国の勢力図が大きく塗り替わる一大事業でした。
しかしこの時点での家康はあくまでも豊臣五大老の筆頭として行動していたと位置付けられ、個人としての独自運動開始は慶長8年(1603)の征夷大将軍任官以降のこととされています。
おわりに
徳川家康が天下人となる過程で、最大の画期といっても過言ではない関ケ原の戦い。豊臣政権の後継権力の座を手中にした家康でしたが、秀吉嫡男・豊臣秀頼が健在でした。その後の大坂の陣を経てようやく家康の天下が訪れるため、関ケ原の戦いは豊臣政権内での大規模な権益闘争の結果とも言い換えられるでしょう。西軍の首魁であった石田三成は、豊臣古参勢力の離反を招くなどマイナスのイメージで語られることが多かった武将ではないでしょうか。武断派に対する文治派、あるいは吏僚的とも評される事務能力に秀でた人物で、秀吉が想定した平和な世の中にあってこそ不可欠な人材として重用されたことがうかがえます。
戦国の世では人望を集めることができなかったという文脈で捉えられがちですが、一方では強大な家康の勢力に屈することなく秀吉の遺命を果たそうとした、「豊臣最後の忠臣」という評価と人気が近年高まりをみせています。
歴史的な出来事への捉え方というのは、当時の勝利者・為政者・権力者による記録への依拠が大きく、それらの故事を基にした後世の創作もイメージ形成に多大な影響を与えています。
関ケ原の戦いという天下分け目の大戦においてもまさしくその通りですが、それぞれが自身の国や一族の生き残りをかけて戦ったことに変わりはありません。
まだまだ謎の多い部分も残る関ケ原の戦いですが、今後の研究の進展によって新たな事実が浮き彫りになっていくことでしょう。そんな成果が積み重なると、あらゆる武将への旧来の印象覆ってしまう日がやってくるかもしれませんね。
【主な参考文献】
- 『日本歴史地名体系』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
- 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
- 『ビジュアルワイド図解 日本の合戦』 2014 西東社
- 『【決定版】図説・戦国合戦集』 2001 学習研究社
- 『歴史群像シリーズ 51 戦国合戦大全 下巻 天下一統と三英傑の偉業』 1997 学習研究社
- 公式 関ケ原観光ガイド
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