「榊原鍵吉」一徹の剛剣! 天覧兜割で知られる最後の剣客
- 2021/11/04
明治維新によって武士の世は終焉を迎え、日本には急速に近代化の波が押し寄せました。やがて丁髷はざんぎり頭になり、大小二刀差しは禁止となり、「武士」という職業そのものが消滅。それまで年貢を主な収入源としていた旧武士たちは大量に失職し、生活に困窮するものが続出しました。
経済的な面はもちろんですが、それは文化的な消失にも直結します。特に武士たちが中心に担ってきた各種の武術は、新時代に不必要なものとして衰退の一途を辿りました。現在の視点からすると貴重な身体文化であり、無形の文化財といえるのですが、実際に数多くの流派が消滅していくことになります。
そんな状況を憂い、救済策を考案した人物がいました。旧幕臣にして講武所剣術教授を務めた榊原鍵吉(さかきばら けんきち)です。彼は幕末の剣聖として名高い「男谷精一郎」の高弟であり、幕府への忠義を一徹に貫いた武人でした。
今回はそんな最後の剣客、榊原鍵吉の生涯を概観してみることにしましょう!
経済的な面はもちろんですが、それは文化的な消失にも直結します。特に武士たちが中心に担ってきた各種の武術は、新時代に不必要なものとして衰退の一途を辿りました。現在の視点からすると貴重な身体文化であり、無形の文化財といえるのですが、実際に数多くの流派が消滅していくことになります。
そんな状況を憂い、救済策を考案した人物がいました。旧幕臣にして講武所剣術教授を務めた榊原鍵吉(さかきばら けんきち)です。彼は幕末の剣聖として名高い「男谷精一郎」の高弟であり、幕府への忠義を一徹に貫いた武人でした。
今回はそんな最後の剣客、榊原鍵吉の生涯を概観してみることにしましょう!
出生~青年期
榊原鍵吉友善は天保元年(1830)11/5、幕臣・榊原友直の長男として江戸・麻布広尾(現在の東京都港区南麻布五丁目)に生を受けました。剣術の門下に入ったのは天保13年(1842)、その師は幕末の剣聖として名高い、直心影流・男谷精一郎信友でした。道場は同じ麻布の狸穴(現在の港区麻布狸穴町)にあり、通うのに便利でしたが、同年に鍵吉の母が死去。一家は下谷根岸(現在の台東区下谷)に移転したため、道場からは3里とも4里ともいわれる遠方となってしまいます(1里は約4km)。
しかし鍵吉は兄弟の面倒や家事をこなしながら、一日も欠かさず男谷精一郎のもとに通いました。これを不憫に思った精一郎は、家から近い道場への移籍を勧めましたが、鍵吉は二師に学ぶ気はないとしてその後も男谷道場に通い続けました。
一徹な鍵吉は修練を重ね、まもなく頭角を現すようになります。しかし幕臣といえど貧しかった家計からは、流派の階梯が上がるたびに必要な費用を捻出するのが困難でした。当時の武術では現代のような段位制ではなく、流派ごとに修行の段階によって独特の名前の付いた階梯が設けられていたのです。
時代小説やメディア作品などに登場する「目録」や「切紙」などの言葉がそうで、例えば小野派一刀流ではこれが8段階ありました。階梯が上がる(昇段する)と、束脩と呼ばれるお礼金や祝いの席を用意するのが作法とされ、実力はあっても経済的に恵まれていない者には大きな負担となっていました。
榊原家の状況をよくわかっていた男谷精一郎は、道場側で用意を整えたうえで嘉永2年(1849)、鍵吉に直心影流の免許皆伝を与えます。このとき師弟の間にどのようなやり取りがあったのか詳らかではありませんが、一徹な鍵吉が気遣いをせずにすむよう、精一郎は心を砕いたことが想像されます。
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講武所教授時代~維新後
幕末当時、内外の緊張感の高まりから軍備拡充を含めた幕政改革が実行され、その一環として旗本・御家人らの武術訓練が奨励されました。そして設立されたのが「講武所」です。この講武所設立の献策を行ったのが男谷精一郎で、安政元年(1854)に開設が決定した「講武場」に始まり、安政4年(1857)には武術訓練専門施設「講武所」が築地に竣工しました。
鍵吉は講武所頭取並兼剣術師範に就任する師・精一郎の推薦により、剣術教授方として講武所に採用されます。
翌年、弱冠12歳で徳川家茂が14代将軍に就任すると、やがてその親衛隊的な位置であった奥詰の一人として勤め、家茂の厚い信任を得たといいます。
家茂が鍵吉に注目したのは、安政7年(1860)に講武所が神田小川町に移転した際の御前模範試合においてでした。この時に鍵吉が対戦したのは、「幕末の三舟」の一角として知られる自得院流(忍心流)槍術の達人、高橋泥舟でした。
槍術というのはリーチの長さもさることながら、視認が難しい高速の突きと接近を許さない巧みな操法で、非常に強力な武術として知られています。剣術でこれに対するには、俗に3倍程度の力量差が必要とされるほど難しいという説があります。
しかし鍵吉は泥舟の練達の槍術を真っ向から撃破、将軍・家茂は剣術の個人教授を鍵吉から受けるようになったといいます。伝わるところによると鍵吉の技は精巧なタイプではなく、「薪割り剣法」と揶揄されることすらあったという虚飾のない豪快なものだったようです。
剣術の究極は「振り上げて、振り下ろす」という動作に集約されるといっても過言ではなく、愚直なまでにその基礎を突き詰めた剣士だったことをうかがえます。
文久3年(1863)、家茂の上洛に随行した鍵吉は、京でもその剣椀を遺憾なく発揮し、剣術家としての名声を高めました。しかし慶応2年(1866)に家茂が二条城で客死、鍵吉は江戸に帰還しますが、講武所は陸軍所へと組織変更が行われます。
職を辞した鍵吉は、旧・講武所師範や奥詰衆らで結成された幕府軍部隊・遊撃隊の頭取(隊長格)に就任。隊内では抗戦派と非戦派に分かれ、鍵吉は慶応4年(1868)の上野戦争では彰義隊に合流しなかったものの、輪王寺宮の脱出を補佐して新政府軍兵と刃を交えたといいます。
維新後には徳川宗家を継いだ徳川家達に従って一時駿府へと移りますが、明治3年(1870)に東京へと戻ります。鍵吉には新政府から刑部省の大警部に就任するよう要請がありましたが、代わりに弟・大沢鉄三郎を推挙してこれを辞退。以降、生涯を在野の剣術道場主として過ごすことになります。
少年の頃、二師に学ぶことを拒んだ鍵吉は、将軍家以外の二君に仕えることも拒否したのです。
撃剣興行と天覧兜割
榊原鍵吉という人物の名を歴史に残す事績として、以下の2つがもっとも有名ではないでしょうか。撃剣興行(げっけんこうぎょう)
ひとつは、明治6年(1873)に始まった「撃剣興行」です。これは維新後に生活が困窮した武士・武術者の救済策として考案されたもので、武術の演武や試合を有料で公開する、いわば「武のショービジネス」のさきがけでした。歴史的には、武術を見世物にしたという批判の声もありましたが、近年では古武道という貴重な身体文化の命脈を保った功績が再評価されています。
撃剣興行のムーブメントそのものは長く続きませんでしたが、武術の達者だった旧武士たちは警察機構という受け皿に奉職していくパターンが出来上がっていきます。
天覧兜割(てんらんかぶとわり)
もうひとつは、明治20年(1887)に明治天皇が伏見宮邸に臨席した際に行われた、いわゆる「天覧兜割」です。天覧兜割は、警視庁撃剣世話掛であった、上田馬之助・逸見宗助、その他に槍術・弓術の遣い手が参加したイベントの一つであり、名人が鍛えた兜を刀で斬れるかどうかを試すものでした。
使用した刀は正確な記録はないものの、一説には重ねの厚い実戦刀として知られる「同田貫派」の作を用いました。上田と逸見と鍵吉の三人が兜割に挑戦し、鍵吉だけが5分(ごぶ:約1.5センチメートル)斬り込んで成功させたと伝わっています。
鍵吉57歳のことで、気・剣・体一致の剛剣を深く印象付けました。
おわりに
明治27年(1894)1月1日、高弟の山田次朗吉に免許皆伝を授け、直心影流15代として自身の江戸・車坂道場を継承させます。そして同年9月11日、脚気からくる心不全により、64年の生涯を閉じました。戒名は義光院杖山倭翁居士、その魂は四谷・西応寺に眠っています。鍵吉は維新後、脱刀には応じたものの、生涯髷を切ることはなかったといいます。武士としての誇りとともに一徹に剣の道に尽くしたその生き様は、「最後の剣客」と呼ばれるにふさわしい畏敬の念を起こさせますね。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
- 『日本人名大辞典』(ジャパンナレッジ版) 講談社
- 『古事類苑』(ジャパンナレッジ版)
- 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 講談社
- 『歴史群像シリーズ 日本の剣術2』 歴史群像編集部編 2006 学習研究社
- 『古武道の本』 2002 学習研究社
- 日本古武道協会 鹿島神傳直心影流
- 国立国会図書館 近代日本人の肖像 榊原鍵吉
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