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天皇機関説をご存じですか? 日本を戦争に導いたものの本質
- 2022/03/07
大正元年(1912)に東京帝国大学法学部教授である美濃部達吉(みのべ たつきち)氏は一冊の本を出版しました。その本の名は「憲法講話」。内容は憲法についての解説で「君主は国家におけるひとつの、かつ最高の、機関である」という国家法人説に基き当時の大日本帝国憲法を解釈したもので、学生の授業にも使われていました。
当時の日本において「君主」とは「天皇陛下」を指すことは明瞭です。そして発行から23年が経った昭和10年(1935)に当時の貴族院(現在の参議院に該当)において菊池武夫議員が「憲法講話」を取り上げ、猛烈な批判演説を繰り広げました。著者である美濃部教授は「学匪」「謀叛人」とまで罵られたのです。
憲法に関する第一人者であり、東京帝国大学法学部教授でもあった美濃部教授の著書が、なにゆえ、そこまで非難されたのでしょうか。
当時の日本において「君主」とは「天皇陛下」を指すことは明瞭です。そして発行から23年が経った昭和10年(1935)に当時の貴族院(現在の参議院に該当)において菊池武夫議員が「憲法講話」を取り上げ、猛烈な批判演説を繰り広げました。著者である美濃部教授は「学匪」「謀叛人」とまで罵られたのです。
憲法に関する第一人者であり、東京帝国大学法学部教授でもあった美濃部教授の著書が、なにゆえ、そこまで非難されたのでしょうか。
畏れ多くも天皇陛下を機関車・機関銃に喩えるとは何事か
その問題点は内容ではなく、表現にありました。つまり、「機関」という言葉が問題になったのです。「機関」という言葉を天皇陛下を表す言葉として使うのは不敬も甚だしい、という訳です。これに対し、美濃部教授は貴族院において「一身上の弁明」という演説を行いました。美濃部教授自身も貴族院議員でしたので説明の演壇に立つのは容易なことでした。そこで「憲法講話」を平易明瞭に解説する釈明演説を行いました。その結果、議会の一部からは拍手が起こり、当の非難した菊池武夫議員からも「そうか、それならばよし」という言葉まで出たのです。
当時の朝日新聞でも論調としては美濃部教授の味方をする記事が掲載されました。これで一旦はおさまったかに見えました。
再び、攻撃が始まる
しかし、美濃部教授の弁明記事が新聞に掲載されると、当時、野党であった政友会を中心に猛烈な攻撃が始まり、一旦は納得したはずの菊池武夫議員までもが再び攻撃を開始したのです。政友会は「不敬を行った人物を放っておくのか」という姿勢で当時の岡田内閣を攻撃しました。つまり「政争の材料」にされてしまった訳です。
その結果、岡田首相は議会閉会後に美濃部教授の取り調べを警察に指示する一方、出版法違反として美濃部教授の著書を発禁にしました。さらに文部省は「国体明徴訓令」というものを発表しました。
「国体」という言葉は現在では「国民体育大会」の意味ですが、当時は「日本国という国の体制」という意味で使われていました。「我が大日本帝国の国体は畏くも天皇陛下がお治めになられる国であり日本民族は、これ全て陛下の元、一丸となっている唯一無二のものである」という感じで使われていたのです。
岡田内閣はさらに「国体明徴に関する政府声明」という声明を発表し、日本の統治権の主体は天皇陛下であることを明確にし、天皇機関説を教授することを禁止としました。
しかし、ちょっと考えてみて下さい。元々、憲法講話でも「日本の統治権の主体は天皇陛下にある」と書かれています。つまり「国体明徴に関する政府声明」は憲法講話と同じことを言っているのです。
にもかかわらず、このような声明を出さざるを得なくなったのは、もはや「天皇機関説」が表現の問題から逸脱し「天皇機関説はけしからん」という雰囲気が主流になってきた世論を抑えるためだったのです。
当時、多くあった右翼団体は一斉に「機関説撲滅号」という冊子を作り、世論をより右翼傾向にうごかすべく声を荒げ始めました。それに一般世論も動かされ始めてしまっていました。
つい、十数年前までは大正デモクラシーの時代で平和な日々だったのに、世論は一変して右翼化していきます。この問題は右翼団体に「声を大にして発言する機会」を与えてしまったのです。
ですので、もはや美濃部教授が「機関と言う表現は適切ではなかった」と弁明しても流れは止まりません。そもそも騒ぎ始めた連中は「憲法講話」を読んでもいないのですから。
皮肉な展開
国が戦争を行う時には、バックアップをする国民の同意が必要不可欠です。召集令状を出しても来てくれなければ困りますし、武器の増産や食料の増産などの物資調達をスムースに進めるにも国民の同意が必要です。相沢事件で斬殺された永田鉄山少将は「日本国民一人ひとりが日本の国防の責任を担うという自覚を持つ」ことを理想とし、軍だけでなく国民の自覚が必要である、と力説していました。そして、まさに天皇機関説は日本国民一人一人に「自覚」を与える結果となってしまったのです。
もちろん冷静に考えれば「なんかおかしくないか?」と思う人はいたでしょう。しかし大多数の人々が、いわば集団ヒステリー状態になってしまっている状況では、少数の反対意見は完全に無視されてしまいますし、下手をすれば自分の身が危なくなってしまいます。
当時は院外団といって議員専属の暴力組織があり、政敵を闇討ちにしたりしていた時代でもあります。そんな状況下では「なんか、おかしくないか?」と思っても、それを声に出すのは危険であり、ナチスドイツの政権下でヒットラーを批判するのと同じ結果を生んだでしょう。
こうして少数意見は完全に封じられ、日本国民の大多数は「戦争もやむなし」という意見に賛成票を投じるようになっていくのです。
永田少将が言っていたのは、いわば「世論の形成が必要」ということでした。そして天皇機関説は、その「世論の形成」を成し遂げさせてしまいました。
菊池議員は以前に商工大臣であった中島久万吉氏を「逆賊であった足利尊氏を礼賛する記事を書いた」という理由で糾弾し、辞任に追い込んだ実績を持っています。これが菊池議員には快感だったのでしょう。
多分、美濃部教授への糾弾も、同じような流れを期待してのことだったと思われます。しかし、足利尊氏と天皇陛下では世間の反応が、あまりにも違い過ぎたのです。菊池議員は次の選挙では落選し、政界を去ることになります。
岡田首相の命令を受け、検察は一応、美濃部教授の事情聴取を行いましたが、担当検事は東大法学部出身で、まさに美濃部教授の教え子であり、司法試験でも美濃部教授の試験を受けて合格した、と言う検事があたりました。
その恩師を取り調べることになった検事と美濃部教授のやり取りは、そう逸脱もせず終わり、検察は起訴猶予処分としました。しかし、帰宅した美濃部教授は翌年に「教え子だ」と名乗る人物の来訪を受け、襲撃されて重症を負わされます。
天皇機関説問題は様々な人々の様々な思惑が複雑に絡み合っており、色々な面からの推測が可能です。特に当時、枢密院議長であった一木喜徳郎氏が美濃部教授の恩師であり先輩であったことから、一木氏を枢密院から追い出そうとしていた副議長の平沼騏一郎氏の策謀とする説もあり、これは結果から見ると「本当にありそう」な説です。
また、岡田内閣の倒閣を狙う政友会の思惑があったのは確実ですし、右翼の論客である蓑田胸喜氏が当時、東京大学法学部で美濃部教授のライバルであった上杉慎吉教授と交友があったことや、蓑田胸喜氏の暗躍が事態をエスカレートさせたことも事実のようです。
熊本県出身の陸軍中将であり、男爵の爵位を持つ華族でもあった菊池議員に、平沼氏や蓑田氏との交流があったかどうかは今となっては分かりません。平沼氏や蓑田氏は、ただ偶然に訪れたチャンスを最大限に活用しただけかもしれません。
いずれにせよ、この時、何かが大きく動いてしまったのです。もし、それが誰かの意図によって引き起こされたものであっても、多分、その誰かの予想を遥かに上回る効果を日本に及ぼしてしまったことだけは、結果的に事実なのです。
1914年にセルビア人の青年が撃った一発の銃弾が結果的に第一次世界大戦を引き起こしたように、歴史の歯車というのは何をきっかけに回り出すか分からないものだ、ということだけが、この事件が教えてくれる事実なのです。
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