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源義経は本当に平泉で死んだのか

奥州平泉で藤原泰衡の急襲に合い、自害したとされる源義経。しかし東北や北海道に残る義経の足跡は、どうして今に至るまで伝わっているのでしょうか。そもそも義経は本当に自害したのでしょうか?

義経が頼朝の怒りをかった訳

源義経といえば、源平合戦で大活躍した源氏の武将です。歴史好きな皆さんには、お馴染みの人物ですよね。兄である頼朝が打倒平氏に決起した際、義経も駆けつけて兄弟で父の敵を討つことになります。

義経は、兄頼朝に褒められたいという一心で戦いに参加し、源氏の大勝利に貢献をしますが、そんな義経に対し、頼朝はあまりにひどい仕打ちをすることになります。

一体なぜ、頼朝は義経に対し怒りをあらわにしたのでしょうか。その大きな理由として、義経と後白河院の関係が挙げられます。

義経軍が木曽義仲を破り、幽閉されていた後白河院を解放。これに喜んだ後白河院は、義経に左衛門少尉、検非違使の位と職を授け、さらには九州や四国の地頭に任命してしまいました。頼朝に相談もせずに軽い気持ちで受けてしまった義経、あまりに軽率な行動をしてしまったものです。これを知った頼朝は激怒します。

義経は兄頼朝の命令に従って、平氏討伐を行ったのです。なので部下となる義経が、後白河院から勝手に褒美を受けることは許されるはずがありません。頼朝としては他の武士たちの手前、立場上許すことができなかったのは当然のことでしょう。

しかし実際のところは、義経のあまりの活躍を見て、次は自分がやられるという危惧を抱いたのではないでしょうか。つまりは、やられる前にやってしまえという、あまりに打算的な思いから義経討伐に繋がったと思われます。

藤原泰衡の裏切りにより義経自害

義経は激怒する頼朝に謝罪の手紙を書きますが、頼朝はおさまりません。もう許されないと悟った義経は、その昔、養育者としてお世話になった平泉の奥州藤原氏の当主、藤原秀衡のもとに向かい、庇護を頼んだのです。

快く引き受けた秀衡でしたが、義経が平泉に入って9か月後に無くなってしまいます。そして秀衡の遺言は、義経を君主として息子の國衡・泰衡の3人で力を合わせ、頼朝の攻撃に備えよ、というものでした。

家督を継いだ泰衡に対して頼朝は、義経追悼の圧力をかけ続けます。そして圧力に屈した泰衡は、ついに衣川の戦いで義経を妻子とともに自害に追い込むのです。

頼朝への忠誠を示すことができて一安心の泰衡。しかし頼朝は、許可なく義経を殺害したとして、奥州征伐を行い、奥州藤原家を滅ぼしてしまいます。

この頼朝の行動がわかっていたからこそ、秀衡は頼朝の攻撃に備えろと遺言を残したのでしょうね。出来の悪い息子を持った上の悲劇になってしまいました。

※義経最期の地とされる衣川館跡にある高舘義経堂
※義経最期の地とされる衣川館跡にある高舘義経堂

義経の首を鎌倉に

義経の首は、酒を満たした黒漆塗りの櫃(ひつ)に納めて運ばれます。

運んだのは藤原高衡で、秀衡の四男に当たる人物です。そして平泉を出て鎌倉に到着したのは、なんと43日後のこと。到着後に首実検がされましたが、黒く焼け焦げていた上に、1か月以上も酒に浸かっていたため、腐敗がひどく本人との判別ができなかったそうです。

なぜ鎌倉に行くのに43日もかかってしまったのでしょうか。しかし普通に考えれば、首が完全に腐敗してしまうまで、わざと時間をかけたともいえるのではないでしょうか。

このことから、義経は生存していて、身代わりの首を送ったのだと想像できます。

泰衡が第四代当主になった時、泰衡派に反して弟の忠衡・通衡・頼衡の3人は義経派として動いていたそうです。それが証拠に、義経が自害したすぐ後に、3人とも泰衡によって殺害されているのです。

首を運んだ高衡は、泰衡派のようにふるまっていましたが、実は隠れ義経派だったとも考えられますね。

衣川の戦いで死んだはずの義経ですが、義経派の助力によって無事に脱出したのではないでしょうか。義経がいた建物は焼き討ちにあっていますので、焼けただれた首なんて、泰衡もまともに見れなかったことでしょう。

義経を恐れた兄頼朝

源頼朝は、正治元年(1199)に53歳で亡くなります。死因は落馬の際に負った傷が原因とされているのですが、実は未だ謎の部分も。それは、落馬したのは義経の亡霊が目の前に現れたからだとも伝えられているからなんです。

時は建久9年(1198)12月27日。頼朝の妻である北条政子の妹の供養のため、相模川橋まで来た頼朝。まさに橋に差し掛かった時、突然に馬が何かに怯えて棒立ちになったのです。そのために、馬上の頼朝が振り落とされて負傷し、半月後の1月13日に亡くなります。状況からみても、落馬時の傷が原因になったことは間違いありません。

馬が棒立ちになったのは、義経の亡霊が出たからだと言っても、大勢の人は信じないでしょう。しかし「化けて出た」のです。少なくても義経に対して、心にやましさを抱える頼朝にとっては、義経の亡霊が見えたのではないでしょうか。

『承久記』によると、「水神に領せられて~」という記載があります。馬ごと相模川に転落して、大量の水を飲んだことが原因になったかもしれませんね。馬が暴れたと言うより、義経の亡霊に驚いた頼朝が、馬の手綱捌きを誤ったとも考えられます。

現在の藤沢市の公園に今でも残る首洗い井戸は、村人が義経の首を葬るために洗ったとされる場所です。井戸の脇に源義経公之首塚があり、さまざまな伝承が残っています。

頼朝が義経の怨霊に怯えていたのは間違いないようで、首塚近くに祠を建てて義経の霊を祀っているのが、その証ともいえるでしょう。

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  この記事を書いた人
五百井飛鳥 さん
聖徳太子に縁のある一族の末裔とか。ベトナムのホーチミンに移住して早十数年。現在、愛犬コロンと二人ぼっちライフをエンジョイ中。本業だった建築設計から離れ、現在ライター&ガイド業でなんとか生活中。20年ほど前に男性から女性に移行し、そして今は自分という性別で生きてます。ベトナムに来てから自律神経異常もき ...

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