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【やさしい歴史用語解説】「苗字」
- 2022/03/10
苗字は「姓」と同じと捉えられますが、元来は古代日本において大王(天皇)から有力豪族へ与えられた称号という意味がありました。この場合は「姓(かばね)」となり、臣(おみ)や連(むらじ)といったものですね。
ところが国の制度がまとまってくると、誰がどんな人なのかを区別する必要が出てきました。そこで登場したのが「氏(うじ)」と呼ばれるものです。
氏の場合は同族の血縁者集団を指し、役職や職務にあやかって付けられていました。この時に蘇我氏や中臣氏などが誕生しています。
そして平安時代になると、天皇の血統を祖に持つ「源氏」と「平氏」が登場します。また、従来からの「藤原氏」と「橘氏」を合わせて源平藤橘となりました。やがて藤原氏が全盛期を迎えると、朝廷内の要職を藤原氏が占めることとなり、どこも藤原だらけといった状況となりました。
そこで区別するために始まったのが、独自の苗字を名乗ることです。たとえば京都室町の東に近衛殿という邸宅を持っていたから「近衛」。あるいは九条に屋敷があったことから「九条」を名乗りました。さらに枝分かれして「一条」や「二条」を名乗る者も現れます。
こうした地名を名乗る習慣が、地方で興った武士にも伝わりました。相模国三浦に住んだから三浦氏、伊東荘に土着したから伊東氏といった感じで、武士の多くもまた地名を名乗っていたわけです。
室町時代から戦国時代になっても「地名=苗字」の図式は変わりません。ちなみに織田信長の祖は越前国織田にある劔神社の神官でしたし、朝倉氏もまた但馬国朝倉の出身でした。また、恩賞として主君から苗字を与えられることも珍しくなかったとか。こうして一気に苗字の種類は増えていったのです。
江戸時代になっても庶民は苗字の使用を許されています。よく江戸時代を通じて苗字は禁じられていたと認識されていますが、実際に禁止されたのは江戸時代末期になってからのことです。
さて、公的な帳簿には苗字を記載できなかったものの、控えなどにはしっかり記載していたそうです。当時の史料をひも解くと、水呑(いわゆる小作農)であっても先祖伝来の苗字があることがわかります。
明治時代になると、平民苗字必称義務令が発せられて苗字の使用が許されました。戸籍を明らかにし、効率的に税の徴収を推し進めたい新政府の思惑があったようですが。
地方の農村単位では、昔使っていた苗字を戻すだけで良いのですが、江戸や大坂など都市部の庶民にとっては、数世代にわたって苗字を失っているケースがありました。そこで様々な苗字が考案されたようです。
畑の西に住んでいるから「西畑」。大きい村に住んでいるから「大村」などなど、方角や住環境によるものが多かったとか。あるいは講談や演劇の主人公にあやかって苗字を付けることもあったそうです。
そう考えると、苗字を通じて自分のルーツを探し出すことも可能かも知れません。
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