「新宿駅西口地下広場」は、誰も気づかないまま50年前に消滅していた

「広場」→「通路」に書き換えられた過去

 JR新宿駅西口改札を出て真っ直ぐ進む。まもなくすると、タクシーやバスの乗場がロータリーを囲むようにしてある、広い地下空間が見えてくる。

 さて、ここはどこか? そう聞かれたら誰もが「西口地下広場」「西口広場」と答えるだろう。1966年に新宿駅西口の整備事業が完了した時は、確かにそうだった。

 しかし、3年後の1969年7月18日には、駅案内表示板の「西口地下広場」の文字はすべて「西口地下通路」に書き換えられた。立ち止まる人がいれば「通路ですから移動してください」と、警官がすぐに声をかけるようにもなる。

 当時の警察や行政は、ここが「広場」ではなく「通路」という認識を広めようと躍起になっていた。なぜ、そこまで「通路」にこだわったのだろうか?

ここが「広場」では不味かった

「広場」が「通路」に変わった1969年。この年は2月頃から、新宿駅西口地下広場にベトナム戦争反対を訴える学生たちが集まり、ギターを弾いて反戦歌を歌うようになっていた。

“フォークゲリラ”と呼ばれ、マスコミも新たな新宿名物と報道して話題に。噂を聞きつけて人が集まってきた。そこでは政治や世相について議論が起こり、あげくにケンカも始まる。また、カンパを募る者、物売り、詩の朗読者や舞踏家といったパフォーマーも出没するカオスな状態だった。

 春になって気温が上昇すると、人の数はさらに増える。5月の連休が終わった頃には5000人を超えていたという。西口地下広場はもちろん、ロータリーのタクシー乗場にも人があふれていた。

 広場の石畳の上に座り込んで歌声に聞き入る人々も多い。まるで野外フェスの会場みたいな感じだったろうか。

「歌声がうるさくて公衆電話が使えない」
「学生集会は通行の邪魔だ」

 などと、新宿駅や所轄の警察に入ってくる苦情も急増した。

 そこで西口地下広場での集会を禁止して、機動隊を配置するようになるのだが、それがかえって逆効果。措置に反発を覚えた者、騒ぎになっていることを面白がる者が続々と押しかけ、広場に集う群衆はさらに膨れあがる。

 そして6月28日には、機動隊と一部の学生が激突して騒乱が起きた。この時には催涙弾も発射されたという。ロータリーの開口部があるとはいえ、地下に催涙ガスが充満して凄いことになってそう。当然、強硬措置には批判も多かった。

 もうあんな騒動はごめんだ。警察はそう思ったことだろう。そのためには、ここが「広場」のままでは不味い……。

「広場」は人が集まる場所だ。そこで立ち止まる人がいても普通のこと、咎めることはできない。また、唄うのも議論するのも自由。誰も止められない。騒ぎに発展しそうな危険だらけだ。

 危険を未然に防ぐには、西口地下から「広場」を消し去ってしまわねばならない。と、考えたのだろうか?

 機動隊突入の翌日、警察は西口地下広場に道路交通法を適用して「許可なく交通の妨げとなる行為を行う事は全面的に禁止」とした。さらに翌月には、駅の案内表示板がすべて「西口地下広場」から「西口地下通路」に。

 現代でも駅前で演奏するストリートミュージシャンに「ここはダメだから」と警官が声掛けするのをよく見かける。「通路」では人々の通行の妨げになる行為は許されない。そういうことだ。

 さて、ここで歴史をさらに遡ってみる。1958年、新宿駅西口一帯に広がる淀橋浄水場の移転が決定し、跡地を副都心として整備する計画が決定した。同時に新宿駅西口の整備事業もスタートし、1966年9月には地下と地上の二層構造になった立体式ターミナルが完成している。

 副都心への玄関口となる西口は利用者の急増が予想された。地下改札の周辺は私鉄や地下鉄、バスなどの乗り換えや、駅地下商業施設を利用する人々が行き交う。幾筋もの複雑な人流がスムーズに動けるよう、駅前の設計は配慮せねばならない。世界一の乗降客を誇る駅の規模にあわせて、歩行者の動線を太くする必要があった。

 そして当時は世界にも類のなかった超極太の動線を確保した結果、この広い地下空間ができあがる。つまり、最初から「通路」として使うのが目的だったのだが。その眺めは、

「これは広場だよなぁ」

 誰の目にもそう映る。駅の案内板も人々が抱く印象をそのままに「広場」と表記された。この時には「広場」か「通路」か、その名称にこだわる必要もないと考えていたのだろうか? 3年後に起きた想定外の事態に、安直な命名を後悔した関係者も多かったはず。やはり、使用目的はちゃんと示しておくべきだった。

 若者たちの政治への関心は薄れて、ここに集うことはなくなった。その後、新宿駅の乗降客は増えつづけるが、通路として正しく使われるようになった超極太の動線は、それを余裕で流してゆく。

90年代の西口地下に「村」が出現

 90年代にはこの地下空間で新たな問題が起り、行政や警察は再び頭を悩まされるようになる。

 バブル経済崩壊後の不況下、新宿駅西口から都庁へ向かう地下通路には、ホームレスたちが住むダンボールハウスが軒を連ねていた。当時は〝ダンボール村〟とも呼ばれていたが、1996年1月には東京都建設局が動く歩道の設置工事を理由にダンボールハウスの撤去をおこなった。が、それが裏目に。事態はさらに困った方向に進んでしまう。

 ホームレスたちは雨露をしのぐ場所を探して西口地下広場に移動した。支援のボランティアが西口地下のインフォメーションセンター前に「新宿緊急避難所」という看板を掲げ、炊き出しなどの支援活動をおこなうようになる。と、その周辺にはダンボールハウスが次々に再建された。

 その当時のことは私も覚えている。西口改札を出た左手の方角には、ダンボールとブルーシートの家々が建ちならぶ街があった軒先には洗濯物が干され、中からはカセットコンロで煮炊きする湯気が立ち昇っている。

 しばらく経つと、段ボールの壁一面にペンキで絵を描いたお洒落なハウスが増えていた。また、ギターで歌いながら義援金を募る支援者が現れる。地下に歌声が戻り、久しぶりに「広場」がそこにできあがる。

 60年代の学生闘争の頃とは違って、機動隊を突入させる強硬手段は取らなかった。地下からホームレスを追い出して凍死でもされたら、世間からの批判は避けられない。それを恐れたのだろうか。

 警官が「ここは通路ですから」と、ダンボール村住人に退去勧告をして回る。その程度のソフトな対応がつづく。だが、行き場を失った人々が簡単に従うはずもない。そうして2年が過ぎた頃には、ダンボールハウスの集落は地下空間の風物として馴染んできた感があった。その頃になって惨事は起こる。

 1998年2月7日未明、ダンボール村に火災が発生した。あっという間に火がまわり、密集する50数軒のダンボールハウスが全焼。4人が焼死している。ダンボール村は解散して大半の住人は都の施設に入り、また、一部の人々は新宿中央公園に移った。

 西口地下改札から地下商店街へ向かって歩くと、かつてのダンボール村の跡地がある。現在、跡地はすっぽりとガラスで囲われた多目的スペースとなり、イベントや即売会が催されるようになっている。

 ガラスの壁に遮られた地下の空間は、以前に比べると窮屈な感じで「広場」の印象は薄れた。これなら「西口地下通路」の名称も、違和感なく受け入れることができそうなのだが。

地下空間は「通路」から再び「広場」に!?

 新宿駅西口の地下空間をさらにじっくりと見てまわる。すると「西口地下広場」だった頃の名残をあちこちに発見できた。

 床タイルの大半は近年になって張り替えられている。しかし、改札近い場所の床は他の場所とはあきらかに違っていた。柱を中心にして、円を描くように小さなタイルを張りあわせたデザインは、なんだかとても古臭い印象がある。

 それもそのはず、この部分の床は60年代の頃から残っているものだ。当時のフォークゲリラに関する画像を見ると、柱を背に歌う若者の足元に、いま私が見ているのと同じ形状のタイル床が確認できる。

 また、地下空間から地上に登る階段にも発見があった。丸みをおびた階段の手摺り、様々な焼き色の手作り感のあるタイルは、これも昔の写真で見たものと同じだ。

階段の下には最近見かけなくなった公衆電話も健在。当時、集会の歌声がうるさくて電話の声が聞こえないと警察に苦情を入れたのは、ここで電話を使った人だったのかもしれない。

「広場」の名残を探してさらに歩く。すると……あれ!? 「西口地下広場」と書いてある駅案内板がいくつも見つかる。それは消し去られたはずなのだが。一方、書き換えられたはずの「西口地下通路」の文字のほうは、どこにも見つからない。どういうこと?

 ひと通り見てまわったところ、大半の案内板が「西口地下広場」となっている。残りは「広場」でも「通路」でもなく、ただ「西口」とだけ書いてある。正式名称の「西口地下通路」の文字は、やっぱり、どこにもない。

 時が経てば記憶は風化する。事件から50年も過ぎているのだ。「広場」と「通路」といった名称へのこだわりも薄れる。そうなれば広い地下空間はどう見ても「広場」のほうがしっくりとくるだけに、

「もう広場でもいいのではないか?」
 そういうことになったのだろうか。

「通路」の名称はいまだ定着しておらず、誰もが広場と呼んでいる。それだけに案内板は「広場」と表記したほうが、利用者も混乱せずにすむということ? 真実はわからないのだが。

 もはや「ここは通路です!」などと、いちいち人々に注意を促す必要はない。今時は駅前で無届け集会を開く者や、ダンボールハウスを作って住む者はいない。また、スマホの普及で駅前の待合せも少なくなった。

 広場として使われることのない広大な地下空間に、その名前だけが蘇る。「広場」という名の通路として……。

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  この記事を書いた人
青山誠 さん
歴史、紀行、人物伝などが得意分野なフリーライター。著書に『首都圏「街」格差』 (中経文庫)、『浪花千栄子』(角川文庫)、 『江戸三〇〇藩城下町をゆく』(双葉社)、『戦術の日本史』(宝島文庫)、『戦艦大和の収支決算報告』(彩図社)などがある。ウェブサイト『さんたつ』で「街の歌が聴こえる』、雑誌『Shi ...

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日月
とても興味深い内容でした!確かに一時期、ダンボールハウスが多かったですね。都庁の通路の方まで続いていたのを覚えています。
2022/12/01 19:41