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江戸幕府13代将軍・徳川家定 34年間の辛い人生

★徳川家定の肖像(徳川記念財団蔵。出典:wikipedia)
★徳川家定の肖像(徳川記念財団蔵。出典:wikipedia)
13という数字はイエス・キリストが処刑された「13日の金曜日」にちなんでか「不吉な数字」と言われています。

アポロ13号はアポロ計画で唯一、事故を起こした有人宇宙船で世界中が大騒ぎをしました。日本でも足利13代将軍・足利義輝は将軍であるにも関わらず、「永禄の変」でたった30人の側近だけで、10000人の三好・松永連合軍と直接対決に追い込まれ、斬死させられています。

では、徳川13代将軍・徳川家定はどうだったのでしょう? おそらく、歴代15代の徳川将軍の中で、彼ほど辛い人生を歩んだ将軍はいなかったのではないか、と思うくらいに辛い人生を歩まされたのです。

人の人生に運、不運は付き物ですが、あまりにも不運すぎる徳川13代将軍、徳川家定の人生をたどってみましょう。

家定が生まれた状況

家定は12代将軍、徳川家慶の四男として、この世に生を受けます。父の家慶は子だくさんで27人の子供がいました。そのうち、男は14人で家定は四番目の男の子でした。

平和な時代であれば、跡継ぎでもなく、気楽な身分だったはずです。一生将軍家の一族という扱いで暮らすことができたでしょう。ところが家定は脳性麻痺を持った状態で生まれてきたのです。

脳性麻痺が起こる原因は色々で、妊娠中における脳の発達障害、早産による低体重児、新生児仮死などの、いわゆる難産で生まれた子に発生することが多い病気です。家定の場合、脳の思考回路そのものは正常であったと考えられるので先天的なものではなく、出産時になんらかの原因で生じた、後天的ものではないかと推測されます。

脳性麻痺はなんらかの運動障害を伴うことが多く、家定には現在では「アテトーゼ型」と呼ばれる障害が残ったようです。「アテトーゼ型」の脳性麻痺は知的発達は正常なのですが、姿勢保持が出来ず、体が思い通りに動かないので本人にとっては非常に辛い病気です。

さらに家定が生まれた頃、江戸の町では天然痘が猛威を振るっていました。「人類が駆逐に成功した数少ない感染病」である天然痘は恐ろしい病気で致死率は最大で50%、運良く自然治癒しても体に「醜いあばた」が残ってしまい、江戸の町では「瘡(かさ)っかき」と呼ばれていました。

江戸城内でも天然痘は猛威をふるい、家定も罹患。運良く自然治癒したものの、顔に醜いあばたが残ってしまったそうです。歴代徳川将軍は必ず「御姿」を絵に残しますが、家定の「御姿」はあえて、あばたを書かないようにしたと言われています。

家定を記述した記事では「病弱」と書かれることが多いですが、脳性麻痺と天然痘による「醜いあばた」がその実態でした。

次々と死んでいく兄弟

家定には27人の兄弟姉妹がいたのですが、16歳まで生き残ったのは、なんと家定、ただ1人でした。他の兄弟姉妹は全員、16歳になる前に亡くなってしまったのです。

江戸時代の言葉に「七歳までは神のうち」というのがあります。まだ医療が未発達だった時代、子供のうちに死んでしまう例が多く、七歳まで生き残る子は決して多くなかったのです。そこで「七歳までは親の物ではなく神の手のうちにある」と言う意味でした。

七五三のお祝いというのは、実は、その節目を祝うものだったのです。医療が未発達で決して衛生的とはいえない状況の中で生き残れる子供は、生まれつき免疫力が強くて体力もある子か、運の良い子だけだったのです。ましてや江戸で天然痘が猛威を振るっていた時期です。この時期の子供の生存率が著しく下がったことは間違いありません。

それにしても27分の26という死亡率は異常で、これには多分に「将軍家の跡目争い」も関係しているようです。家定は自分でカステラや饅頭、煮豆やふかし芋といった、お菓子を作る趣味があり、家臣にも振舞っていたそうですが、これは毒殺を怖れてのことであったとも言われています。

ただ、一人だけ生き残った家定は祖父である徳川家斉(11代将軍)の家に招かれたとき、出された食事に一切手を付けなかったそうです。つまり、男兄弟の多くは毒殺されてしまい、家定はそれを知っていたと思われるのです。

将軍家では三度の食事は1人につき10人分が作られ、そのうち2つは先に毒見役が食し、異常がなければ残った8つの中からランダムに選ばれたそうです。つまり日々の食事に毒を盛る余地はありません。ですので毒殺するとなると間食である ”お菓子” になります。家定がお菓子を作ることを趣味としていたのは「生き残るための手段」だった、とも考えられるのです。

邪魔な奴を殺したい場合、切り殺したら「刃傷沙汰」となってしまい、大問題となります。しかし毒殺であれば医師が ”病死” と言えばそれまでです。正確には分かりませんが、12代将軍の跡目争いが「兄弟間の毒殺合戦」となった可能性は十分に考えられるのです。事実として16歳まで生き残ったのは家定、ただ1人だけだったのですから。

家定は生まれつき、体が不自由でしたので「跡目争い」をする連中からみたら「あれは放っておいても良い」と思われていた可能性があるのです。

父である徳川家慶の動向

ただ一人、生き残った家定ですが、生まれつき体が不自由ということもあり、父家慶は家定に後を継がせることを躊躇したようです。この時期、御三卿の一つ・一橋家の慶喜が「稀に見る英才」と言われており、家慶は慶喜に跡目を継がせようと本気で考えていた、と言われています。

家定が祖父、家斉の家を訪問したときに毒殺されることを怖れたのも、家慶の意向を受けた家斉が家定を亡きものにしようとした可能性を感じ取ったのではないでしょうか。しかし、なんてひどく辛い状況なのでしょうか。家定は兄弟や父親、祖父といった自分の身内に毒殺されることを常に怖れて暮らさなければならなかったのです。

また、天然痘による顔のあばたを見られるのが嫌で、家定は人前に出ることを極端に嫌がりました。わずかに乳母の歌橋だけが家定の心の寄りどころであり、心を開ける相手だったようです。

将軍位継承

嘉永6年(1853)6月22日、父家慶が60歳で病死します。すると、現時点で長子である家定と英才の誉れ高い慶喜のどちらに跡を継がせるか、両派に別れて大激論となりました。

しかし老中首座である阿部正弘の「長子相続が原則」という意見が通り、家定は29歳で正式に第13代徳川将軍に就任します。しかし家定が将軍に就任した9日前に浦賀にペリーの乗った黒船が現れて大騒ぎになっていました。

以後、幕末の時代に突入していくのですが、まだペリー来航が、その引き金になるとは誰も気づいてはいませんでした。家定は将軍になってからも、生活状況は変わらず、お菓子作りにいそしんでおり、「イモ公方」というあだ名が付けられてしまうことになります。ただし、最低限の公務は行っており、米国総領事タウンゼント・ハリスに謁見もしています。

家定はハリスに「遥か遠方より使節をもって書簡の届け来ること、ならびにその厚情、深く感じ入り満足至極である。両国の親しき交わりは幾久しく続くであろう合衆国プレジデントにしかと伝えるべし」と自ら述べた、とハリスの日記に書かれています。

「将軍らしいところを見せた」と記している一方、家定の体の動きについても記しており、それが「アテトーゼ型脳性麻痺」の症状と酷似していることから、今日、家定の病状を考察する史料となっています。

御台所

将軍の奥さんを御台所と呼びます。家定は18歳の時に関白家から嫁いできた鷹司任子と婚儀を挙げていますが、彼女は天然痘で死亡。その後、一条秀子を娶りますが、彼女もその半年後に病死しており、家定の将軍就任時には正式な御台所がいませんでした。

将軍になってから3年目の安政3年(1856)、家定32歳の時に薩摩藩出身の篤姫と婚儀を挙げることになるのですが、篤姫が来てくれたことが、その後の江戸幕府にとって計り知れないくらいの救いとなるのは、もう少し後の話です。

家定と篤姫の関係がどうだったのかは、資料も逸話も全く残されていませんので分かりません。ですが篤姫はとても心が広く優しい性格でしたので、多分、家定も心を開ける相手であったのではないでしょうか。 

ただ、家定は「相変わらずの生活」を続けており、篤姫と直接に会話をしたのは、ほんの数回しかなかった、とも言われています。だとしたら、せっかく巡り合えた良きパートナーに気づくことが出来なかったという、とても残念な話になります。

そして篤姫の御台所としての生活もわずか1年9か月で終わりを迎えてしまいます。家定は34歳で病死してしまうのです。死因は脚気の悪化とも、コレラに感染したためとも言われています。

病の床に伏した家定は将軍在籍中、唯一と言って良い「指示」を家臣に与えます。それは「跡継ぎは慶福(後の徳川家茂)とする」というものでした。そして、その翌日に息を引き取りました。

おわりに

家定の人生を俯瞰してみると「不運」が付きまとっている、と言えます。わずかな救いは乳母である歌橋がいたことで、彼女は明治10年まで生きており、家定にとって「唯一、優しさを与えてくれる人」だったようです。

不自由な体で醜い「あばた」があり、周囲は殺意ばかり、という状況で育ち、人前に出るのを極端に嫌っていたのに将軍職にさせられる、という人生を送った家定は、歴代徳川将軍の中で最も辛い人生を送った将軍と言えるでしょう。

しかし運命とは数奇なものです。家定がいたから篤姫は徳川家に来てくれたのです。そして激動の幕末で江戸幕府の幕引き役を引き受けてくれました。迫りくる薩長連合軍の総大将、西郷隆盛に手紙を送り、勝海舟との直接会談を実現させたのは篤姫の手紙あってのことだったのです。

元々、江戸に本社を構えていた欧米各国は江戸攻撃に反対でしたが、薩長連合軍は勢いづいており、西郷でも「何かなければ」江戸攻撃を中止させることは困難な状況であったと言われています。その「何か」を提案してくれたのが篤姫だったのです。つまり、家定がいなければ江戸の町は火の海になっていったかもしれなかった、とも言えるのです。

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  この記事を書いた人
なのはなや さん
趣味で歴史を調べています。主に江戸時代~現代が中心です。記事はできるだけ信頼のおける資料に沿って調べてから投稿しておりますが、「もう確かめようがない」ことも沢山あり、推測するしかない部分もあります。その辺りは、そう記述するように心がけておりますのでご意見があればお寄せ下さい。

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