吉原の四季(春・夏) 年中行事を言い立てて客に散財させる手口
- 2024/03/08
お江戸の二大悪所の一つ「吉原」。この町はなんのかんのと理由をつけて紋日をこしらえ、客に散財させようと企みます。
江戸時代、世間では五節句など各種の年中行事を行う日を物日(ものび)と呼びましたが、吉原では正月の松の内や7月の玉菊灯篭など、独自の行事日を設けて紋日(もんび)と呼んでいました。
「その日は特別な日だから」と理由をつけて特別料金を徴収し、世間一般の物日と重なる日は特に大紋日とし、料金は倍額になります。
江戸時代、世間では五節句など各種の年中行事を行う日を物日(ものび)と呼びましたが、吉原では正月の松の内や7月の玉菊灯篭など、独自の行事日を設けて紋日(もんび)と呼んでいました。
「その日は特別な日だから」と理由をつけて特別料金を徴収し、世間一般の物日と重なる日は特に大紋日とし、料金は倍額になります。
正月は書き入れ時
特に正月は書き入れ時でした。さすがに元日は吉原大門(吉原遊郭の入口・正面玄関)を閉めて商売は休みました。各妓楼では楼主以下若い衆もやり手も遊女も全員が大広間に勢ぞろいし、お屠蘇と“羹(かん)”と呼ぶ雑煮で新年を祝います。2日は初見世で買い初めとして、去年のうちに約束を取り付けていた馴染み客を迎え、大黒舞(だいこくまい。門付芸の一種。)や太神楽(だいかぐら。獅子舞をはじめとした曲芸)などが賑やかに新年を祝います。
2日から7日まではぶっ通しの紋日で、客はいつもより派手に振る舞い、祝儀も大盤振る舞いするのが ”粋” とされました。上客を迎えられた花魁は鼻を高くし、客を呼べなかった遊女は妓楼(ぎろう。遊女がいる店のこと)からも朋輩からも失笑を買うばかりなので、年末になると遊女たちは必死で誘いの文を書き散らしました。
また、正月・三月・五月・七月・九月の紋日には“仕着日(しきせび)”と言う特別の日が設けられ、この日には楼主が花魁の稼ぎによって季節に応じた着物をあつらえてくれました。特に正月2日はめでたい柄の豪華な着物を着た花魁が茶屋などに年初めの挨拶に出向き、禿(かむろ。遊女に使われる少女のこと)も大羽子板を抱えてお供し、それは華やかだったそうです。
如月二月
二月は初午と10日が紋日です。初午は現在でも稲荷神社の例祭として祝われますが、五穀豊穣の神が転じて商売繁盛の神となった稲荷神社、客商売の吉原にとっては大切な神様です。各妓楼では遊女の名を書いた大提灯を軒下に吊るし、狐の大好物油揚げや赤飯・菓子を供えます。また花魁が馴染み客の手を引いて吉原内京町二丁目に設けられた九郎助(くろすけ)稲荷神社へ参拝し、「私はこの太夫から特別扱いされる上客なんだよ」と客の見栄心をくすぐってあげます。
1日から7日間は大門を入ってまっすぐ伸びる仲の町の大通りで “大神楽” と呼ぶ大道芸大会が開かれました。これは江戸市中の大道芸人を呼び込んでそれぞれ得意の芸を披露させ、遊女や客は2階の座敷から見物します。また、普段は吉原へ入れない一般の女性や子供も招き入れ、共に眺めて楽しみました。
春の桜祭りもそうですが、吉原では1年に何度かこのような催しを開催し、一般庶民も遊里に招き入れます。男から金を巻き上げる悪所として睨まれるのを、少しでも和らげようとしたようです。
弥生三月
三月は3日の雛祭りに18日の浅草三社祭、そして夜桜見物が見ものです。仲の町にずらりと満開の桜木を並べ、雪洞でライトアップ、夜桜見物を楽しみました。満開の夜桜の中、多くの伴を従えた花魁が絢爛たる打掛に身を包み、外八文字の足取りで歩く道中は、現在のテーマパークのパレード並みの見ものでした。なんと、この大量の桜木はその季節だけ外から持って来たものを植えて、散り始める前に引き抜いて植え替えていたのです。現在でも花の時期の桜の植え替えは難しいとされますが、高田馬場の長右衛門と言う植木屋が全て請け負っていました。桜の周りには青竹の垣根を巡らし、2階から眺めやすいように高さも揃え、根元には山吹も植えます。
この夜桜見物は正月に劣らぬ華やかな見もので「夜桜を見せ山吹をひったくり」と山吹色をした小判を落とさせようとの仕掛けです。
卯月四月・皐月五月
4月は特に賑やかな行事はなく、8日のお釈迦様の誕生日を祝う灌仏会に、町内に祭ってある仏像に甘茶をかけて甘露が降る穏やかな御代でありますようにと祈るぐらいです。安政期の末頃からは仲の町の通りに花菖蒲を植え、5月の端午の節句に備えました。仲の町の中央に小さな溝を掘り水を流し、そこに菖蒲を植え付けていくのですが、周囲には垣を巡らしところどころには小橋も渡しといった凝りようです。これも桜と同じく長右衛門が毎年60両(480万円)で請け負うのが習わしです。
5月5日の端午の節句は“仕着せ日”と衣替えで、遊女たちも楼主から送られた単衣の夏衣装に衣替えします。この日には植えて置いた菖蒲の花開きが60両かけて行われます。
世間では梅干しを漬ける季節ですが、中旬には吉原でも名物の“甘露梅”を漬け込みます。遊女お手製の物もあり、これを翌年正月に贔屓客への進物としましたが、贈られた客は大得意でした。
水無月六月
旧暦6月は夏の盛り、江戸っ子たちは川辺へと夕涼みに出かけ、そのまま近場の岡場所へ行ってしまい、吉原は夏枯れの季節。1年で一番暇な時です。1日には富士権現の、9日には近くの三之輪天王の、15日には山王の祭礼が行われますが、遊女たちが楽しむぐらいで吉原を挙げての行事ではありません。土曜の入りに馴染みの客や引手茶屋に名前入りの団扇を贈るぐらいです。
紋日と物日
最初は25日ほどだった紋日は元禄の頃には何と1年に80日以上が紋日か大紋日とされ、しょっちゅう行事だらけになってしまいます。一銭でも多く稼ごうと考え出された紋日ですが、客にすれば揚げ代のほか台の物と呼ばれる料理屋や、店の者に渡す祝儀など、すべてが倍料金になるのでその日は避けるようになりました。
紋日に遊女を1日買い占めることを “仕舞(しまい)” といい、位の高い上客持ちの遊女は当然特別料金でなじみの客に買い占めて貰えるはずとされます。
しきりに文を書いて “仕舞” をねだっても応じて貰えない遊女は、体面を保つために自分で自分を買う “身揚がり” までせねばなりません。おまけに自身の着物は楼主があつらえてくれましたが、お付きの新造や禿たちの着物は遊女が新調してやらねばならず、妓楼の奉公人にも祝儀をはずまねばならず、で大きな物入りになりました。
おわりに
儲けに走る楼主たちが考え出した紋日ですが、かえって客足を遠ざける事となり、幕府のお達しもあって、寛政9年(1797)には一気に18日にまで減らされました。【主な参考文献】
- 安藤優一郎「江戸の色町遊女と吉原の歴史」株式会社カンゼン/2016年
- 堀江宏樹「三大遊郭」幻冬舎/2015年
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