関東大震災、各国から差し伸べられた救援の手
- 2023/08/25
大正12年(1923)9月1日11時58分32秒、明治維新で開国し欧米諸国以外で初めて近代化に成功し“東洋の奇跡”と呼ばれていた日本の首都東京府は、大震災により壊滅的な打撃を蒙ります。
日本からの唯一の情報発信元、磐城無線局
「土曜日正午横浜激震。大火発生、延焼は全域に及び死傷者多数」
これが国外に向けて発信された関東大震災の第一報です。当時日本から唯一外国に発信できる磐城無線局から打たれたもので、神奈川県警察部長の一報を受けた局長の米村氏が事の重大さを理解、すぐさまロサンゼルスのラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(RCA)支局に打電しました。
RCAから電話でAP通信社支局に伝わり、2分後にはAP加入全社に配信されます。これにより現地時間9月1日の夕刊、つまり地震発生から僅か12時間後の紙面に日本が大震災に襲われたとの記事が掲載されました。
際立っていたアメリカからの救援
諸外国からの救援で際立っていたのはやはりと言うかアメリカです。第一次世界大戦時の終戦からまだ5年、連合国として共に戦ったアメリカ合衆国からの支援は群を抜いていました。震災翌日の2日には早くも第30代アメリカ大統領クーリッジは、大正天皇宛てにお見舞いの電報を打つと共に、被災者救援のために陸海軍に出動命令を下しています。まず日本の近く清国やフィリピンマニラに錨泊していた米国アジア艦隊に、医療品や薬品など救援物資を積み込み、横浜へ急行するよう命じます。このとき混乱する日本では、まだ対策本部さえ出来ていませんでした。
また、赤十字に対し「政府はアメリカ赤十字社をして、日本の震災の救援に最大の努力を払う」と述べ、赤十字社に対し即時に日本へ出発するよう命じます。アメリカ赤十字社には“日本救済事務所本部”が作られ、救援の司令塔となります。同時に太平洋航路を持つアメリカ汽船各社に今後1ヶ月間の予約をすべてキャンセル、船舶を待機させて、アメリカ各地から集まる日本への救援物資輸送を優先させます。
翌3日には大統領自らアメリカ国民に向け、義捐金と救援物資の寄付を呼びかけました。
「1分早ければ、1人多く助かる」
これはニューヨーク市が義捐金募集に使ったキャッチフレーズです。
奇しくも大震災当日に落成披露宴が開かれた帝国ホテル、フランク・ロイド・ライト設計のこの建物は大きな損傷も無く、アメリカ軍が運び込んだ救援物資の集積場となり、各国大使館や新聞社その他の通信機関の為に公開されます。アメリカからやって来た医療救護団300余名は各地に臨時病院を開設し、負傷者の治療に当たります。彼らは6000床のベッドと貴重な医療器具と薬品も提供してくれました。
かつてサンフランシスコでも巨大地震(1906年)が襲いました。このとき日本はアメリカを援助しますが、海外からの援助は日本が最も熱心で救援金の額も抜きんでていました。
アメリカ人はこの時のことを覚えていたのです。
中華民国からも
当時、日本が進出を窺っていた中華民国からも、排日運動を一旦中止し、義捐金が寄せられます。日本赤十字社と中国紅十字社は共同で救援活動に当たり、清帝国最後の皇帝愛新覚羅溥儀も深い悲しみを表明し、義捐金を送ることを発表しました。清王朝の皇宮であった紫禁城内に蓄えられた西太后愛蔵の真珠など、多くの宝石や美術品を送り、日本で換金して義捐金に充てるよう日本の駐在公使に伝えます。日本側はこの申し出を深く感謝し、それらの品々当時の評価額20万ドルは換金せずに日本皇室の財産として保管し、同額を皇室から見舞金として拠出する事を決めます。また北京政府は10万元もの多額の救済金を拠出し、段祺瑞(だんきずい)ら何人かの富豪も多くの義捐金を提供しました。
排日運動の急先鋒であった東三省民報は
「同種同文の民として、日本の不幸を我が身の不幸のように考え」
との社説を掲載し、深い同情の念を表します。
ソ連からの救援船「レーニン号」
外国からの救援の中には共産党革命を果たしたばかりのソビエト連邦からの救援船も混じっていました。震災から1週間後に救援隊や医薬品を乗せた“レーニン号”がソ連を出発します。出航を知った日本政府は、物資は受け入れますが、救援隊の活動は謝絶します。これは救援活動に名を借りた共産主義思想の流入を警戒したからですが、横浜に入港した“レーニン号”の乗組員が「救援品は労働者階級の者に配布する」「震災は日本での革命達成の天の配剤」などと話したため、日本は物資の受け取りも拒否し、すぐに国外退去を求めました。
やむなく“レーニン号”はソ連へ戻りますが、当然ソ連政府からは抗議が届きます。日本側は救援には感謝しつつも、「不穏な事を話す乗組員が居た」と釈明、今後特別の条件が無い救援物資なら受けいれると伝え、国交正常化交渉への影響は避けられました。
その他の国々からも
その他イギリス・フランス・インド・オーストリア・イタリア・メキシコ。ブラジルを始め、キューバやサンマリノ・タイ・ペルーなど、当時世界の独立国であった57ヶ国のほとんどから救援の手が差し伸べられます。国際連盟の会議の場でフランス代表委員レーノルドは「国際連盟に対する日本の負担額減額」を提案し、満場一致で可決されます。第一次世界大戦の反省から生まれた国際連盟は、このころは「悲惨な世界大戦を繰り返してはならぬ」との気運に満ちていました。
この国際世論が多くの国が日本を救援した背景にありました。しかし皮肉にもこの関東大震災での日本救済運動が、世界が1つになり、平和を求めて国々が支え合おうとの国際連盟の理念が発揮された最後の出来事になってしまいます。
おわりに
このように世界の多くの国々が日本を襲った厄災に手を差し伸べましたが、後年日本はその国々の多くと敵対関係に陥ってしまいました。【主な参考文献】
- 鈴木淳「関東大震災」講談社/2016年
- 河合敦「テーマ別で読むと驚くほどよくわかる日本史」PHPエディターズ・グループ/2019年
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄