※ この記事はユーザー投稿です

日英同盟締結の基礎を作った柴五郎は、まさに日本の侍だった

柴五郎(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
柴五郎(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 柴五郎(しば ごろう、1860~1945)は、第12師団長・東京衛戍総督・台湾軍司令官・軍事参議官を歴任し、階級は陸軍大将勲一等功二級に至る日本の陸軍軍人です。

 義和団の乱の防衛戦で世界から賞賛を浴び、欧米各国から数々の勲章を授与されています。タイムズの記者ジョージ・アーネスト・モリソンが大きく取り上げたこともあって、柴五郎の名は欧米で広く知られる最初の日本人となりました。

柴五郎という人物

 会津藩士の五男として生まれた柴五郎。1868年に起こった会津戦争で次兄を失い、敗戦により凌辱を拒否して、祖母・母・姉・妹と義兄の妻の5人が自刃するという辛い思いをしています。ただ、柴五郎はまだ9歳だったため、大祖母のところに預けられ、無事に難を逃れました。

 会津戦争で生き残った会津藩の人たちは、青森斗南藩のほとんど作物が育たないような不毛の地に追いやられ、まだ幼い柴五郎も無事生還した父や兄と一緒に、その不毛の地で窮乏生活を強いられることになりました。

 しかし妻や家族を亡くした父は、「餓死などしてはならない。こうして生きることがことが薩長への仕返しとなるのだ。ここで死んではならん。」と言って、父と子は生き抜いたのです。

 その後、青森県地方官の長官に次ぐ官職となる大参事として赴任してきた野田豁通(のだひろみち)が、頭脳明晰で秀才であった柴五郎を見出し、陸軍幼年学校に入学させます。厳しい生活の中で培った強靭な根性を持って、柴五郎はどんどんと昇進していくことになるのです。

義和団の乱

 義和団の乱とは、扶清滅洋(清国を助け、外国を滅ぼせという意味)を叫ぶ、宗教的秘密結社義和拳教による排外主義運動のことです。そして何を血迷ったのか、清国の西太后がこの反乱を支持して、欧米列国に宣戦布告をしました。

 こうして国家間戦争に発展することになりますが、西太后の宣戦布告から2カ月後、北京の公使館員や居留民保護のために8カ国連合軍が北京に進出して騒動を鎮圧します。その際、最大の兵力である8000人を投入したのが大日本帝国でした。

 明治32年(1899)10月に陸軍中佐進級を経た柴五郎は、明治33年(1900)3月に清国公使館附を命ぜられます。駐在武官として着任後の同年5月、この義和団の乱が勃発しました。

 義和団の暴徒が各国の大使館を攻撃、そのとき日本公使館書記生の杉山彬やドイツ公使ケットレルらが殺害されてしまいます。

刀剣や小銃で武装している義和団の兵士(出典:wikipedia)
刀剣や小銃で武装している義和団の兵士(出典:wikipedia)

 一方、柴五郎は公使西徳二郎の下で居留民保護にあたりながら、他国軍とともに60日に及ぶ篭城戦に突入。当時の北京には日本の他11カ国の公使館があり、そのうち日本を含む8カ国が極めて少数ですが護衛兵を持っていました。柴五郎は事前に北京城およびその周辺の地理を調べ尽くし、さらには間者を駆使して情報網まで築き上げていたことで、各国篭城部隊の事実上の司令官となっていたようです。

鬼神 安藤辰五郎

 義和団の暴徒に対する各国の篭城部隊は、合計で約400名ほどの守備兵と150人の義勇兵のみでしたが、対する義和団は、なんと1万人を数えていました。

 ちなみに各国の守備兵の中で最も秀でていたのが、日本でした。小柄ながらも勇敢で機転の利く上に強靭な精神力と統率のとれた戦いができたからです。

 厳しい戦いが続く中、最も大きな規模だったイギリス公使館の壁が破られます。なだれ込んでくる義和団に対し、諦めかけていたイギリス人関係者の目の前に、飛び込んできたのが柴五郎直属の部下だった安藤辰五郎大尉率いる日本人でした。

 サーベルを抜いて鬼神の如く戦う安藤辰五郎は、次々と義和団の暴徒をなぎ倒し、ついに義和団の軍勢を押し戻しますが、非情にも4月6日に戦死してしまいます。安藤が亡くなった時の柴五郎の悲嘆は、とても大きく、その苦しさは後の報告書にも記載されています。

 このような状態の中で篭城部隊は2ヶ月間、8ヵ国連合の援軍が来るまで持ちこたえたのです。中でも最も攻撃の激しかったのが粛親王府の防衛で、ここを日本人が受け持ったのですが、最も死者率が高かったです。

 解放後、柴五郎は占領した北京において略奪や虐待を厳しく戒め、中国の人々の保護にも務めたのでした。

連合軍の兵士ら。左から、イギリス、アメリカ、ロシア、イギリス領インド、ドイツ、フランス、オーストリア、イタリア、日本(出典:wikipedia)
連合軍の兵士ら。左から、イギリス、アメリカ、ロシア、イギリス領インド、ドイツ、フランス、オーストリア、イタリア、日本(出典:wikipedia)

日英同盟締結

 義和団の乱において、獅子奮迅の活躍をする日本人の勇猛な姿を、目の当たりにしたのがイギリス公使クロード・マクドナルド。

駐日英国公使・大使を務めたイギリスの外交官 クロード・マクドナルド(出典:wikipedia)
駐日英国公使・大使を務めたイギリスの外交官 クロード・マクドナルド(出典:wikipedia)

 彼は言います。「私たちが助かったのは勇敢な日本人のおかげだ」と。

 その後、マクドナルド公使は、駐日大使に就任。そして義和団の乱の2年後に調印された日英同盟、この同盟を強く推進したのが、まさしく当時のイギリス公使クロード・マクドナルドだったのです。

 この日英同盟が締結できたことによって、後に勃発する日露戦争に勝利することができたと言っても過言ではありません。柴五郎や安藤辰五郎が身を呈して各国の要人たちを守ったことが、日本人は信用に値すると判断されたのでしょう。そういうことから考えると、柴五郎の行動が日露戦争を勝利に導いたとも言えますね。

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
五百井飛鳥 さん
聖徳太子に縁のある一族の末裔とか。ベトナムのホーチミンに移住して早十数年。現在、愛犬コロンと二人ぼっちライフをエンジョイ中。本業だった建築設計から離れ、現在ライター&ガイド業でなんとか生活中。20年ほど前に男性から女性に移行し、そして今は自分という性別で生きてます。ベトナムに来てから自律神経異常もき ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。