※ この記事はユーザー投稿です

戦の天才「大村益次郎」の名を世に知らしめた二つの戦いとは

●はじめに
作家の司馬遼太郎さんは、近代日本陸軍の創始者である大村益次郎を「花神」と称しました。彼は、明治という新しい時代に向け、その礎を築く活躍をしましたが、明治の世が花開くのを待つことなく、非業の死により、この世から姿を消してしまったのです。

そんな大村益次郎の人物像と、天下にその名をとどろかせた「戦いぶり」に迫ります。

長州藩にヘッドハンティングされる

大村益次郎(村田蔵六)は、文政8(1825)年に長州藩の村医者の子として生まれ、若き日に緒方洪庵の適塾で学びました。同門には、福沢諭吉、佐野常民、橋本佐内、大鳥圭介といった近代日本の歴史に名を残す人物が大勢います。

逸材ぞろいの適塾で塾頭まで務めた益次郎は、洪庵の推薦で宇和島藩に出仕します。そこで蘭学を教えるとともに、軍艦の製造にも着手。さらに幕府の講武所で教べんをとるようになり、西洋兵学の第一人者と言われる存在になっていったのです。

これほどの人材を長州藩が手をこまねいて見ているわけにはいきません。益次郎に対し、万延元(1860)年に藩への出仕を命じました。今風に言うならば、ヘッドハンティングをしたのです。

藩命が下ったとはいえ、益次郎には幕府の役人として生きる道もあったと思います。しかし、益次郎は長州藩士として故郷に戻る選択をしました。長州藩のためにお役に立ちたいという意志が強かったに違いありません。

石州口の戦いに自らも出陣する

やがて長州藩は、幕府から征伐のターゲットにされ、存亡の危機を迎えることになります。益次郎は、今までの兵学の知識をもとに藩の軍政改革に尽力し、最新鋭の兵器をそろえた西洋式軍備を整え、軍事訓練を進めてきました。

その成果を発揮したのが、慶応2(1866)年の第2次長州征伐です。長州藩は「四境戦争」と呼び、幕府が攻め口とするエリアに軍隊を配備しました。その一つ、山陰の石州口に益次郎は出陣します。生まれて初めての実戦でしたが、益次郎は百姓の姿をし、部下にはしごを持たせて領内に潜入。俯瞰(ふかん)の位置から敵の動きを見定め、作戦を立てたと言われています。

浜田藩領内に進軍した長州軍は、人数では劣勢だったものの、西洋式の軍隊はよく鍛えられており、激しい戦闘の末、浜田城を落とします。この戦いでの勝利によって、益次郎は指揮官としての能力の高さを見せつけました。

彰義隊との戦いをたった1日で制す

大村益次郎の名が全国に知れ渡るようになった戦いが、戊辰戦争のなかでも激戦の一つと言われた「上野戦争」です。明治元(1868)年、江戸城無血開城に異を唱える旧幕臣たちが彰義隊を名乗り、寛永寺のある上野の山に立てこもった戦いです。

東征軍の一員だった益次郎は、頑強に抵抗する彰義隊に手を焼く新政府から、上野戦争の指揮を取るよう命じられます。新政府軍と彰義隊とは、圧倒的な戦力差があったといいますが、彰義隊の士気は高く、籠城さながらの戦いは困難を極めると予想されました。

益次郎の戦略は「短期決戦」で、そのためには最大の武器であるアームストロング砲をいかに効率的に使うかがカギを握っていました。予想通りの苦戦が強いられる中、頃合いを見計らっていた益次郎が、最終決着を目指して砲撃の命を下します。

アームストロング砲によって彰義隊は壊滅状態となり、上野の山はわずか1日で陥落しました。益次郎の「短期決戦」への不断の決意と戦場での的確で冷静な判断が、江戸のまちを戦火から救ったのです。

おわりに

大村益次郎は村医者だったころ、あまり愛想がよくない人だったと言われていました。おそらく、学者肌によくある合理主義者だったのでしょう。だからこそ、戦い方を徹底的に分析し、最大の効果を上げる戦略を立てることができたのだと思います。

一方で、好きな豆腐を肴に酒をたしなむような人物でもありました。益次郎は、豆腐を食べることが何よりも楽しみだったと伝わっていますが、ひょっとすると豆腐の味にも蘊蓄(うんちく)を傾け、徹底してこだわっていたのかもしれませんね。

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
マイケルオズ さん
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。