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幕末に囲碁の天才が放った伝説の一手とは

「耳赤(みみあか)の一手」という言葉をご存じでしょうか。嘉永6年(1853)にペリーが来航し、江戸幕府400年の安寧が揺らぐ数年前、ある若き囲碁の天才棋士が披露した妙手をいいます。この1手こそ、平安時代から連綿と続く日本囲碁史上で最も有名な手と言えるでしょう。

弘化3年(1846)7月の大阪・天王寺。後に囲碁の家元である本因坊家を継ぐ18歳の秀策が、ライバルの井上家を率いる幻庵因碩とエキシビションマッチを行いました。プロ野球で鳴り物入りしたルーキーが、現役バリバリの球界エースに挑んだようなものです。

対局は2度の打ち掛け(中断)を挟み、3日がかりで行われました。そして127手目。秀策が盤の真ん中付近に打ち付けた黒石を見た幻庵の耳が、みるみる朱に染まります。観戦者の医師がそこから幻庵の大きな動揺を察し、秀策の勝ちを予言した-それが「耳赤」の由来です。

秀策が放った一手は盤上で孤立しているように見えますが、上辺や下辺で苦戦している味方を援護しながら、左辺の広い敵陣を脅かす効果がありました。のちに秀策の金星を生んだ「一石四鳥」の妙手と絶賛されるようになったのです。

現代では囲碁のAIが進化し、手の善し悪しを数値で評価してくれます。それによると、この127手目は決して最善手ではなかったようです。それでも旧来の常識にとらわれず、思い切った勝負手を大先輩に繰り出し、見事に勝利を呼び寄せたルーキーの胆力と腕前は驚嘆に値します。この対局自体も終盤で優劣が目まぐるしく入れ替わり、歴史に残る名局だったのは間違いありません。

秀策は広島の因島の裕福な農家に生まれ、母親から囲碁を教わりました。いたずらをした罰で押し入れに閉じ込められても、碁石を見ると泣き止む不思議な子供だったそうです。5歳で神童と呼ばれ、9歳で親元を離れて江戸の本因坊家に弟子入り。年1回、将軍の御前で対局する「御城碁」では、幕末の混乱で途絶えるまでの12年間負けなしで、前人未到の19連勝を成し遂げました。そんな圧倒的な実績から、現在でも古今東西で最強の棋士だったと評されています。

妻の花が「一生を通じて夫の怒った顔を見たことがなかった」と語ったほどの人格者でもありました。しかし当時流行していたコレラに感染し、34歳の若さで亡くなりました。他の患者を看護したのが、感染の原因だったと言われています。

耳赤の一手は、早世した天才の人柄や悲劇性と相まって、多くの人の心を打つのでしょう。

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  この記事を書いた人
かむたろう さん
いにしえの人と現代人を結ぶ囲碁や将棋の歴史にロマンを感じます。 棋力は級位者レベルですが、日本の伝統遊戯の奥深さをお伝えできれば…。 気楽にお読みいただき、少しでも関心を持ってもらえたらうれしいです。

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