【静岡県】駿府城の歴史 今川から豊臣、そして徳川の城へと変貌。跡地は現在は駿府城公園として整備
- 2023/03/27
平成30年(2018)、静岡市の駿府城で行われていた「天守台発掘調査」で驚くべき発見がありました。それは徳川家康が築造した天守台の下から、明らかに古い時代と思しき天守台が見つかったからです。
多くの研究者や歴史ファンを驚かせたこのニュースは、それまでの駿府城の概念を覆すものでした。今回は最新研究によって明らかになりつつある駿府城の歴史を、今川時代まで遡ってご紹介していきましょう。
多くの研究者や歴史ファンを驚かせたこのニュースは、それまでの駿府城の概念を覆すものでした。今回は最新研究によって明らかになりつつある駿府城の歴史を、今川時代まで遡ってご紹介していきましょう。
【目次】
現在では想像するしかない今川館の姿
現在の静岡県葵区にあたる駿府は、文字通り「駿河の府中」という意味です。そもそも府中とは諸国の政治・経済・文化の中心地を指し、現代で言うところの県庁所在地といった感じでしょうか。例えば、甲斐・府中、越前・府中、豊後・府内などの都市が知られています。時は南北朝時代、南朝方との戦いで功を挙げた今川範国は駿河守護に任じられ、ここに今川氏による駿河支配が始まりました。ただし、南朝方の抵抗で統治はなかなか進まず、府中の整備が成るのは、範国の曾孫にあたる範政の時代を待たねばなりません。
応永23年(1416)、範政は鎌倉公方・足利持氏を府中へ迎えていることから、少なくともこの頃には整備が完了し、安定した政治をおこなっていたのでしょう。ただし、府中が駿府と呼ばれるのはもっと後の時代のことで、史料上の初見では大永5年(1525)のことです。
さて、範国以来10代にわたって今川氏は駿府を本拠にしていますが、その居館は便宜的に「今川館」もしくは、「駿府館」などと呼ばれています。もし土塁や堀跡・礎石などが残っていれば、その所在は明らかですが、今川館のケースでは痕跡が一切残っていないのです。
それでは今川館はいったいどこにあったのでしょうか?
ここで重要なポイントとなるのが地名です。実は現在の葵区中町は、かつて「四足(よつあし)町」と呼ばれていました。江戸時代後期の『駿河記』によれば、そこには今川館の四足門があったからだと記されています。これは四脚門とも呼ばれますが、正門に配されることが多い格式ある門であり、もし今川館の正門と考えれば、その妥当性は増すに違いありません。
また、昭和57年(1987)における駿府城二ノ丸の発掘調査、並びに平成19年(2007)年の駿府公園西側の発掘調査によって、今川氏の重臣屋敷跡が検出されています。一般的に屋敷群は守護館の周囲に配置されることから、やはり今川館は、四足町~駿府城のあたりに存在した可能性が高いと指摘されてきました。
そして駿府城天守台発掘調査の結果、今川時代の遺構が発見されたのは令和元年(2019)のことです。同時代の陶磁器片が出土し、幅が6メートルもある薬研堀の跡が見つかりました。これだけの規模を持つ堀である以上、やはり今川館は駿府城と同じ場所にあったという可能性が高いのです。
さて、当時の今川館はどのような構造だったのでしょうか? 史料が少ないことから、ある程度推測に寄らざるを得ませんが、例えば、公家の山科言継が記した『言継卿記』によれば、今川家臣・三浦正俊が中門の外で出迎えたという記載があります。つまり、表門以外に内部にも門が存在していたことがうかがえるのです。
また、当時の将軍御所や守護館などは、一様に方形の形態を成していることから、今川館も同じように周囲を土塁や築地、あるいは堀に囲まれた方形居館だったのでは? と想像できるところでしょうか。ましてや今川氏は足利将軍家の一門ですから、かつて足利義満が造営した「花の御所」を模倣したとも考えられるのです。
今川氏の終焉、そして家康による駿府城築城
現在の静岡市街中心部は、整然とした碁盤の目のような作りとなっています。これは今川時代に、あえて京都を模した町割りをおこなった痕跡だとされていますね。このような形態は大内氏の山口でも見られますが、これは戦国大名たちが京都に対する憧れを持っていた表われなのかも知れません。当時は駿府の真ん中を安部川が流れており、これを京都の鴨川に見立てていました。また、愛宕山や清水寺など、寺社や地名にも京都と同じ名称を付けていたそうです。
今川氏の歴代当主はいずれも文化的素養が高く、公家や文化人たちが頻繁に駿府へ下向したといいます。都を模した町作り、そして洗練された文化を取り入れたことで、駿府はまさしく小京都として発展していきました。
ところが永禄3年(1560)、桶狭間の戦いにおいて今川義元が敗死すると、ここから今川氏の凋落が始まります。程なくして松平元康(のちの徳川家康)が離反するものの、対抗策を講じることができない氏真は、三河から手を引くことになりました。さらに永禄年間には、「遠州忩劇」と呼ばれる国衆の反乱が各地で勃発し、今川氏の遠江支配は大きく揺らぐのです。
そして永禄11年(1568)、同盟を一方的に破棄した武田信玄が、ついに駿河侵攻を開始しました。氏真はここに至って駿府の防衛を諦め、西の掛川城へ敗走していきます。
ちなみに駿府城の北には賎機山(しずはたやま)城という山城がありますが、通説では今川氏の詰城(つめじろ)だとされてきました。万が一危機に陥った際、抵抗するための拠点ですね。しかし長く籠城するには不向きであり、今川の被官衆が誰も籠もっていないことから考えても、詰城としては不十分だったのかも知れません。氏真はそれがわかっていたからこそ、西を目指して逃げたのでしょう。
この戦乱によって駿府は焼き払われ、町割りの多くは焼失しました。また、武田氏が江尻城を築いて駿河支配の拠点としていることから、栄華を極めた駿府の町はすっかり荒廃したものと考えられます。
一方、掛川城へ逃れた氏真は、西から攻めてきた徳川軍によって包囲されました。最終的に降伏を余儀なくされ、正室の実家である北条氏を頼るのです。ここに戦国大名としての今川氏は終焉を迎えました。
天正10年(1582)年、織田・徳川軍による甲州攻めの結果、武田氏が滅亡。家康は恩賞として駿河一国を与えられます。駿・遠・三の太守になったことで、ちょうど今川氏の全盛期に匹敵するほどの勢いとなりました。
さらには織田信長が本能寺の変で横死したことで、家康は空白地となった甲斐・信濃の併呑に乗り出し、五ヶ国の太守として君臨することになります。
その後、小牧の役(1584)において、羽柴秀吉との直接対決を迎えた家康ですが、結果は秀吉の戦略的勝利となりました。天正14年(1586)、大坂城へ赴いて秀吉に臣従した家康は、いよいよ本格的に駿府城を築き始めます。
ところで、なぜ家康は浜松から駿府へ本拠を移そうとしたのでしょうか?
実は領国として加えた甲斐・信濃を統治するためには、本拠が浜松のままだと西へ偏り過ぎていたのです。また、甲斐の武田遺臣を家臣団に加えたことで、彼らをうまく統制する必要性も生まれました。その点、駿府に城を築けば好都合でしょう。おそらく秀吉との関係が安定した時点で、家康は駿府へ移ることを考えていたのかも知れません。
天正期天守の大きな謎とは?
平成30年(2018)、これまでの天守台(慶長期)の下から発掘された古い天守台ですが、これは最初の築城時(天正期)に、家康が造らせたという可能性が高いようです。東側には小天守台も確認されており、いわば天守と小天守を繋いだ「連結式天守」の形態を取っていました。現在のところ、天正期に築かれた連結式天守は確認されていないため、おそらく天正期駿府城天守が最古のものとなるでしょう。
事実、徳川家臣・松平家忠が記した『家忠日記』の天正17年(1589)の記載を見ると、「小傳主、手伝い普請に当り候」とあることから、家康によって最初の天守が造られたという説が有力なのです。
しかしながら当時の徳川氏には、これほど高度な築城技術などありません。ではいったい誰が支援したのでしょうか?
最新の歴史研究によると、秀吉のバックアップによって築かれたのでは? という説が濃厚です。遺構からは多くの金箔瓦が発掘されていますが、金箔瓦といえば豊臣政権における富と権力の象徴です。秀吉の家臣であろうと許可なく使用は許されませんでした。
秀吉は臣下の礼を取った家康にあえて金箔瓦の使用を許し、改めて豊臣政権の一員であることを認識させたかった。そんな見方もできるでしょう。
また浜松から駿府への移転についても、そこに秀吉の意図が含まれていた可能性があります。すでに秀吉は北条氏を仮想敵として見ており、最前線に大きな拠点が必要でした。秀吉はそうした意図のもと、家康に駿府城を築かせたのではないでしょうか。天正18年(1590)の小田原攻めでは、駿府城が出撃及び兵站拠点になっていますから、実際に前線基地として機能していたわけです。
ところが駿府城が完成して一年も経たないうちに、家康は関八州を与えられて江戸へ移っていきました。そして織田信雄が徳川旧領への移封を拒否したことで、秀吉の家臣・中村一氏が駿府城へ入るのです。
一氏は、関東の徳川氏を意識して石垣を高くし、堀を深くして防備を固めたと考えられますが、どの程度の手が加えられたのかはわかりません。
江戸城を凌ぐ大きさだった!慶長期の駿府城天守とは?
慶長5年(1600)に起こった関ヶ原の戦いにおいて、一氏は東軍に属すも程なくして病没。代わって弟・一栄が名代として活躍しています。その戦功によって一氏の嫡男・一忠は伯耆米子へ転出し、その後に駿府城へ入ったのが徳川家臣・内藤信成でした。信成は家康の異母弟ともいわれる人物で、およそ6年間を駿府で過ごしています。慶長11年(1606)、家康は隠居地として駿府を指定し、信成は近江長浜へ転封となりました。そして現地を見分すると、改めて「駿府城の大修築」を宣言するのです。
なぜ家康は駿府を隠居地として選んだのでしょう?『宝台院記』の記述によれば、家康が家臣に語った話として、「第一に駿府は守りやすい。第二に米の質が良い。第三に人の性質が卑しくない。第四に気候は温暖そのもの。第五に水難が少ないこと」と5つの徳を挙げたそうです。
さすがに建前かと思われますが、リニューアルされた駿府城はまさしく軍事要塞そのものでした。むろん江戸城を守る前衛となるべき役割を持ちますから、単に旧城を拡張しただけではありません。城下を流れていた安部川をわざわざ付け替え、西から攻め寄せる敵に対する障壁としました。
さらに西日本の諸大名を動員して普請を担わせ、昼夜を分かたず突貫工事に明け暮れたといいます。『当代記』によれば、あまりの疲労のため、人夫たちが鳥目になってしまったという記録もあるほど。
こうして慶長12年(1607)から工事が始まり、7ヶ月ほどの工期で駿府城は落成します。三重の堀を持つ輪郭式城郭で、外側から三ノ丸・二ノ丸・本丸となっていました。
天守の大きさだけを見ても巨大そのもので、江戸城の天守台が東西約41メートル、南北45メートルなのに対し、慶長期の駿府城天守台は西辺68メートル、北辺61メートルの大きさとなっています。駿府城天守は、江戸城天守を遥かに凌ぐ大きさを誇ったと考えられていますね。
もしかすると家康は、江戸城以上の天守を築くことで、大御所として強大な権威を誇示したかったのかも知れません。
ところが天守が完成した5ヶ月後、なんと女房衆の火の不始末から失火し、ことごとく焼け落ちてしまいます。それでも翌慶長13年(1608)正月、2代将軍・徳川秀忠は駿府城天守の再建を申し入れ、家康も了承したことで目途が立ち、2年後にようやく再建天守は完成したといいます。
元和2年(1616)、家康は駿府城で75歳の波乱に富んだ生涯を閉じました。城主のいなくなった城は一時的に番衆が預かることになり、寛永2年(1625)年からの6年間は、3代将軍・徳川家光の弟である徳川忠長が城主となっています。
寛永8年(1631)、不行跡を咎められた忠長は甲斐へ蟄居となり、それ以降は城代が置かれるようになりました。
ところが城代支配になって間もない寛永12年(1635)のこと、城下で火災が発生し、折からの強風に煽られて駿府城へ飛び火します。この時に家康が精魂を傾けて築造した五層七重の天守は灰燼に帰し、それから再建されることはありませんでした。その後、駿府並びに駿河は幕府直轄地として幕末まで続いていくのです。
おわりに
家康が晩年を過ごした駿府ですが、どうも家康には今川氏に対するノスタルジーがあったように思えます。駿府は幼少の頃から過ごした地ですし、懐かしい今川館の跡地に城を築こうとした理由も理解できるでしょう。また流浪する今川氏真を保護した時、名目上とはいえ、ゆくゆくは駿河国主に据えたいという考えもあったようです。すなわち駿府は家康にとって第二の故郷であり、かつての今川時代を思い出させる場所でした。やはり晩年を過ごすには最適の場所だったのかも知れませんね。
補足:駿府城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
建武4年 (1337) | 今川範国が駿河守護となる。(今川氏による駿河支配のはじまり) |
応永年間 | 今川範政が今川館を完成させる。 |
天文5年 (1536) | 花倉の乱が勃発。今川館が襲撃される。 |
永禄11年 (1568) | 武田軍が駿府へ乱入。今川館が焼失する。 |
天正14年 (1586) | 徳川家康、駿府へ入る。駿府城の築城がはじまる |
天正17年 (1589) | 駿府城の築城が完了。天正期天守が完成。 |
天正18年 (1590) | 徳川氏が関東へ移封。代わって中村一氏が城主となる。 |
慶長5年 (1600) | 関ヶ原の戦功により中村一忠が伯耆米子へ転封。 |
慶長6年 (1601) | 家康の異母弟・内藤信成が城主となる。 |
慶長11年 (1606) | 家康の指示により、安倍川の治水工事や町割り整備がおこなわれる。 |
慶長12年 (1607) | 駿府城の修築・拡張工事が始まる。同年のうちに完成するも、失火によって天守が焼失。 |
慶長15年 (1610) | 再建天守が完成。 |
元和2年 (1616) | 駿府城において家康が死去。 |
寛永12年 (1635) | 城下から起こった火災で類焼。天守・御殿・櫓などを焼失。 |
安政元年 (1854) | 安政大地震によって城内の建物、石垣などが全壊。3年後に修復される。 |
明治29年 (1896) | 駿府城跡が陸軍省に献納される。 |
昭和26年 (1951) | 静岡市が駿府城跡の払い下げを受け、駿府公園と命名。 |
平成元年 (1989) | 復元巽櫓が完成。 |
平成18年 (2006) | 日本100名城に選出される。 |
平成26年 (2014) | 復元坤櫓が完成。 |
平成28年 (2016) | 天守台の発掘調査が開始される。 |
平成30年 (2018) | 慶長期天守台の下から、天正期天守台が発掘される。 |
【主な参考文献】
- 小和田哲男『家康と駿府城』(静岡新聞社 1983年)
- 小和田哲男『戦国今川氏 その文化と謎を探る』(静岡新聞社、1992年)
- 中井均・加藤理文『東海の名城を歩く 静岡編』(吉川弘文館、2020年)
- 大石泰史『城の政治戦略』(KADOKAWA、2020年)
- 静岡市役所『静岡市史・近世』(1979年)
- 駿府城公園 公式HP
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