【静岡県】高天神城の歴史 高天神を制する者は遠州を制す!武田 vs 徳川の舞台となった戦国期
- 2023/06/01
高天神城は戦国乱世のさなか、武田氏と徳川氏による争奪戦の舞台となった城です。その要衝ぶりは「高天神を制する者は遠州を制する」と謳われたほどで、まさに遠江をめぐる攻防の焦点となりました。
その堅牢ぶりは今でも健在で、峻険な地形に加えて鉄壁の防御を誇ることから、難攻不落の要塞として知られています。そんな高天神城の歴史を、武田と徳川のせめぎ合いを中心にひも解いていきましょう。
その堅牢ぶりは今でも健在で、峻険な地形に加えて鉄壁の防御を誇ることから、難攻不落の要塞として知られています。そんな高天神城の歴史を、武田と徳川のせめぎ合いを中心にひも解いていきましょう。
家康の遠江侵攻によって徳川の城へ
高天神城が築城される以前、すでに鎌倉時代には御家人・土方氏の居館が山麓に、そして城山の山頂には詰の城があったと「高天神城の総合研究(大東町教育委員会)」によって指摘されています。その後の城史は明確ではありませんが、明応年間(1496~1499)には今川氏による遠江侵攻に伴い、重臣・福島(くしま)氏によって本格的な城が築かれ、遠江支配の拠点となりました。
今川氏親・氏輝の時代には、福島助春が高天神城を守っていましたが、氏輝が急死したことで今川氏の跡目争いが勃発。天文5年(1536)に花倉の乱が起こります。
この戦いで栴岳承芳(のちの今川義元)が勝利したことにより、対戦相手だった福島氏は没落し、新たに小笠原氏興・氏助父子が高天神城に入ったと考えられます。
高天神城の重要性は今川時代から認識されていたらしく、発掘調査によって見つかった遺構や遺物によってうかがい知ることができます。本丸からは礎石建物跡が検出され、遺構の最下層からは15世紀の遺物が出土しました。さらに礫が敷き詰められていることから、そこに煙硝蔵があったことも指摘されています。
また、中国製の青白磁陶器や、唐物の天目茶碗などが発見されており、すでに16世紀初頭には、恒常的な居住空間があったと考えられます。つまり単なる詰の城ではなく、遠江を支配するための重要拠点だったことが推察されるのです。もしかすると今川時代から「高天神城を制する者は遠州を制す」という認識があったのかも知れません。
しかし、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると、遠江における今川氏の影響力は大きく揺らぎました。その後は「遠州忩劇」と呼ばれる国衆たちの離反が相次ぐようになります。そして永禄11年(1568)、武田信玄が駿河へ、徳川家康が遠江へ攻め込むに及び、ついに今川氏の領国は分割されてしまい、高天神城を守っていた小笠原氏興父子も徳川方へ降りました。
第一次高天神城の戦い
さて、武田氏と徳川氏の関係が破綻すると、遠江は両者の攻防の舞台となります。元亀2年(1571)、武田信玄が三河と遠江へ侵攻し、高天神城は2万の大軍によって囲まれました。しかし城主・小笠原氏助は果敢な抵抗を見せ、ついに城を守り切ります。ところが従来まで通説とされてきた信玄による高天神城攻めですが、現在では否定されつつあるようです。なぜなら二の丸北西部の発掘調査の結果、戦死者の遺骨が見つからないどころか、武器は一切検出されず、わずかに小札と陣笠の欠片だけが発見されたのみでした。実際に攻城戦があったことを証明することは困難なのです。
まもなく信玄の跡を継いだ武田勝頼は、いよいよ本格的な遠江侵攻へ乗り出します。天正2年(1574)になると、2万5千の大軍で高天神城へ来攻しました。
やはり勝頼も高天神城の重要度は理解していたのでしょう。東海道からは少し離れているものの、遠江全体を掌握できる位置にあり、しかも遠州灘に近いことから、駿河湊からの物資輸送に適した立地でした。また、城主の小笠原氏助は今川旧臣ですから、徳川氏に対して譜代ほどの忠誠心はないと見越していたはずです。
武田軍の猛攻の中、氏助は一ヶ月以上も粘って抗戦を続けますが、ついに武田方の講和条件を受け入れて開城しました。それは「このまま城に留まって武田方に付いても良いし、それが嫌なら徳川に合流しても構わない」という寛大なもの。城兵たちはそれぞれの道を選択し、ついに高天神城は勝頼の手に落ちたのです。
いっぽう家康から援軍要請を受けていた織田信長は、越前一向一揆の討伐を後回しにしてでも、高天神城の後詰に向かっていました。
『信長公記』によれば、6月14日に嫡男・信忠とともに岐阜を発ち、17日には三河吉田城へ入ります。そして19日に今切の渡しまで来たところで降伏・開城を知り、吉田城へ引き返したそうです。
こうして高天神城が落ちたことで、家康の遠江支配は大きく揺らぎました。すでに犬居城・二俣城・小山城は武田の勢力圏に入り、新たに諏訪原城が築かれています。もはや徳川方で残った拠点は、掛川城しかないという有様でした。しかしながら、こうした武田氏有利の状況は勝頼の慢心を生み、それがのちの長篠敗戦という結果に繋がったのかも知れません。
武田氏によって大改修を受け、要塞化された高天神城
引き続き、小笠原氏助が高天神城主となりますが、程なくして横田尹松に交代しています。とはいえ、尹松はまだ21歳の若さでした。一説によると勝頼は当初、山県昌景を入れるつもりでしたが、重臣中の重臣を最前線の城へ置くわけにもいきません。そこで親類衆の穴山信君に代えようとするも、駿河支配の拠点・江尻城代だったこともあり、やはり適切ではないと判断しました。そこで信君の進言により、尹松が抜擢されたということです。
さて、ここから高天神城は武田氏によって大改修されていきます。元々の縄張りは、大手から三の丸~本丸といった曲輪の構成で、東峰だけに築城されていました。確かに険しくて堅固だったものの、唯一の弱点となったのが北西側の緩やかな尾根です。そこで勝頼は城域を広げることを決意し、東峰の弱点を克服するために西峰の開発に乗り出しました。
まず西峰の中央には西の丸が置かれ、その北側に二の丸を配しており、北西の尾根には長大な横堀を掘削しています。また、要所には尾根を断つ堀切が切られて、敵の接近を跳ね返すほどの防御力を誇りました。さらに数々の曲輪や複雑な防御施設を加えたことで、難攻不落の要塞に造り替えたのです。
それだけではありません。高天神城の周囲は海水が入り込むラグーン状となっており、峻険な山の周囲に湿地帯が広がるという特異な環境でした。つまり山城の堅固さと、水城の攻めにくさを兼ね備えたハイブリッドな城だったわけです。
家康は何とか高天神城を奪還しようと考えますが、こんな城が簡単に落ちるわけがありません。そこで攻略の足掛かりとするべく、天正2年(1574)に馬伏塚城を築き、天正4年(1576)には横須賀城を築城したうえで、包囲と監視を強化しています。
第二次高天神城の戦い
天正3年(1575)の長篠・設楽原の戦いをきっかけに、武田氏と徳川氏の攻守は逆転しました。合戦のわずか3ヶ月後には、高天神城の補給基地として機能していた諏訪原城が徳川の手に落ち、その年の晩冬には二俣城が奪回されました。ただ、勝頼にとって遠江の要衝である高天神城だけは手放したくありません。そこで東に位置する小山城から4キロごとに砦を築き、まるで命綱を垂らすかのように補給を継続しました。
ところが事態が激変したのは天正6年(1578)のことです。越後の上杉謙信が亡くなったのち、養子の景勝と景虎が跡目をめぐって争い、御館の乱が勃発しました。景虎は北条氏政の弟ですから、氏政はすぐさま勝頼に救援を要請し、およそ2万の武田軍が越後へ向かっています。
とはいえ余裕のない勝頼にとって、長く軍勢を留め置くわけにもいきません。そこで景勝と景虎の和睦を仲介するのですが、調停は失敗に終わってしまい、かえって景勝を助ける結果となりました。勝頼に背を向けられた景虎は、翌年3月に追い詰められて自害を遂げています。
実の弟を見殺しにされた北条氏政が怒らないはずがなく、武田と北条の同盟は破綻し、ついに勝頼は東西に敵を抱え込んでしまいます。天正8年(1580)に勝頼は伊豆へ出兵して北条軍と戦いますが、その間隙を衝いて徳川軍が攻め込んできます。そして徳川を退けても北条軍に攻め込まれるといった感じで、外交の失敗は深刻な事態を招いてしまいました。
勝頼が北条氏との戦いに忙殺されている中、家康はいよいよ高天神城攻略に本腰を入れます。すでに代は岡部元信に交代していますが、元信は鳴海城で織田の軍勢をことごとく退け、小山城でも徳川方の猛攻を凌ぎ切った勇将でした。高天神城固守に賭ける勝頼の意気込みが伝わってくるようです。
しかし勝頼に高天神城を救うつもりがあったのか?それともなかったのか?こんな逸話が伝わっています。
甲府で軍議をおこなった勝頼は、重臣を前に「高天神の後詰はどうするべきか」と問いました。すると重臣たちは、城に籠もる横田尹松の書状を引き合いに出し、その進言に従うべきだと説きます。実は「高天神の後詰は無用。捨て殺しになされよ」という書状を尹松から受け取っており、勝頼も仕方なく援軍を出さないことを決めたとか…。
しかし後詰なき籠城は、事態をますます深刻化させました。天正7年(1579)から翌年にかけて、小笠山・獅子ヶ鼻・中村・能ヶ坂・火ヶ嶺・三井山に徳川方の付城が築かれ、包囲は徐々に狭まっていきます。さらに堀と柵が幾重にも設けられたことで、外部からの輸送や連絡は完全に遮断されました。
『三河物語』によれば、その様子はこのように描写されています。
「天正八年庚辰の八月ヨリ高天神ヘ取寄給ヒテ、四方ニ深ク広ク堀ヲ掘ラセ、高土居ヲ築キ、高塀ヲカケ、同塀ニハ付モガリヲ給ヒ、堀向ニハ七重八重ニ大柵ヲ付サセ、一間ニ侍一人ヅツ御手当ヲ成サレ、切ツテモ出バ、其上ニ人ヲ増シ給フ御手立ヲ成サレケレバ、城ヨリハ鳥モ通ワヌ計ナリ」
つまり蟻一匹通さない厳重な包囲の中、城外への脱出はおろか、城内への兵糧・弾薬の搬入など、まったく出来なかったことを意味します。
岡部元信は必死で後詰の要請を繰り返しますが、軍監の横田尹松だけは「後詰など来ない」と冷めた目で見ていたといいます。やはり自らが出した書状に確信があったのでしょうか。そして天正9年(1581)初め、元信は意を決して徳川方へ降伏を申し出るものの、家康から拒否されています。
この年の正月25日に、信長が水野忠重に宛てた朱印状によると、「勝頼は出てこない」と考えており、高天神城を見捨てれば、勝頼の威信は失墜するものと見越していました。
ちなみに信長が「決して降伏を受け入れるな」と家康に厳命したことが、まことしやかに囁かれていますが、実際には遠江は徳川領ですから、信長は「降伏を受け入れるかは家康と重臣たちに任せる」と述べているに過ぎません。しかし信長の意向を忖度せざるを得ない家康は、決して城兵の降伏を認めるわけにはいかなかったのでしょう。
撤退することも、降伏することもできない元信ら城兵たちは、ついに捨て身の突撃を決意しました。同年3月22日、城門を開いて打って出て、全員が壮烈な討ち死にを遂げたといいます。ただ横田尹松のみが間道を伝って逃げ延びたとか。
こうして高天神城は陥落し、遠江における武田方の勢力はほぼ駆逐されました。後詰をすることなく城兵を見捨てた勝頼ですが、結果的に家臣たちの信頼を失う結果となり、翌年の甲州攻めであえない滅亡を遂げるのです。
おわりに
なぜ武田勝頼は、孤立した高天神城に固執してしまったのか?その心情は慮ることはできませんが、もし城兵を速やかに撤退させ、あるいは万難を排して後詰に向かっていたなら?結果は違ったものになったかも知れません。また北条氏との外交の失敗に加え、信長との和睦を模索していた勝頼はあえて後詰しなかったという説もあります。もしそうだとすれば、信長のほうが遥かに上手でしょう。あえて武田方の和睦交渉を黙殺しつつ、高天神城を追い込んでいったわけですから。
いずれにしても高天神城の失陥が、武田氏滅亡への序曲になったのは間違いないのです。
補足:高天神城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
鎌倉時代 | 御家人の土方氏によって、土方館と土方城が築かれる。 |
明応年間 (1496~99) | 今川氏重臣・福島氏によって高天神城が築かれる。 |
天文5年 (1536) | 花倉の乱が勃発し、敗れた福島氏が没落。代わって小笠原氏興が城主となる。 |
永禄11年 (1568) | 徳川家康による遠江侵攻。小笠原氏興が降る。 |
天正2年 (1574) | 第一次高天神城の戦い。小笠原氏助が降伏して武田家臣となる。 |
同年 | 横田尹松が高天神城の城代となる。 |
同年 | 徳川方が対の城である馬伏塚城を築く。 |
天正4年 (1576) | 徳川方が高天神城の南西に横須賀城を築城。 |
天正7年 (1579) | 徳川方が高天神城の周囲に高天神六砦を築き、包囲網を完成させる。 |
同年 | 岡部元信が高天神城の城代となる。 |
天正9年 (1581) | 第二次高天神の戦い。岡部元信以下、城兵が玉砕。 |
天正10年 (1582) | 戦略的価値を失った高天神城が廃城となる。 |
昭和9年 (1934) | 地元の有志たちによって、模擬天守が建設される。 |
昭和50年 (1975) | 国の史跡に指定される。 |
平成14年 (2002) | 東峰曲輪群で大規模な発掘調査がおこなわれる。 |
平成29年 (2017) | 続日本100名城に選出される。 |
【主な参考文献】
- 風来堂「攻防から読み解く『土』と『石垣』の城郭」(実業之日本社 2019年)
- 宮城谷昌光「古城の風景4 徳川の城、今川の城」(新潮社 2007年)
- 大石泰史「城の政治戦略」(KADOKAWA 2020年)
- 城郭遺産による街づくり協議会「戦国時代の静岡の山城」(サンライズ出版 2011年)
- 小和田哲男「戦国静岡の城と武将と合戦と」(静岡新聞社 2015年)
- 千田嘉博「<論説>城郭と戦争の考古学」(京都大学学術情報リポジトリKURENAI 2010年)
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