淀殿の秘められた謎 豊臣秀頼は秀吉の実子ではなかった可能性を検証する

 浅井茶々が秀吉の側室となって、最初に授かった鶴松を数え3つで亡くし、その後に拾丸(ひろいまる。のちの豊臣秀頼)を授かるも、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で徳川勢に敗れて、最期に秀頼と共に自害したことは、これまで誰も疑ったことのない「事実」として受け止められてきました。

 しかし単純に考えてみると、実は不思議な点があることにお気づきでしょうか? 今回は、これまで全く見逃されて来た「不思議な事実」について迫ってみたいと思います。

豊臣秀吉の女性関係

 豊臣秀吉は木下藤吉郎時代に正妻である、ねねと結婚しています。この時、秀吉は24歳、ねねは13歳という若さでした。

 織田信長の家臣として頭角を表すと、本能寺の変後には明智光秀、続いて柴田勝家を破り、織田家の実質的な主導権を握ります。天正11年(1583)には大坂城を築いて、信長の天下統一事業の後継者となる訳ですが、この時、秀吉は46歳という年齢になっていました。

 そして20人にも及ぶ側室を抱えます。ねねとの結婚生活はこの時点で22年にも及んでいましたが、ついにねねとの間に子供は出来ませんでした。それどころか20人もいる側室の誰1人として妊娠しなかったのです。まだ46歳であれば、十分に元気であったはずなので誰か1人位は妊娠してもよさそうなものですが、全くのゼロなのです。

 しかし茶々が側室となって1年後には鶴松を産み、さらには秀頼も産まれています。他のたくさんの女性達は全く妊娠できなかったのに、茶々だけは2回も妊娠したのです。これはちょっと不自然ではないでしょうか?

 これが今回、取り上げたい「検証点」です。

篠田達明氏の見解

 作家であり、医師でもある篠田達明氏は著書『徳川将軍家15代のカルテ』と言う本の中で、この点を指摘し「秀吉は幼児期に、おたふく風を患い副睾丸炎を併発し男性不妊症になったのではないか。従って淀殿が産んだ子供は秀吉の子供ではないのではないか」と書いていますが、秀吉の子供時代の記録は全く残されていないので確認はできません。

 篠田氏も「これはあくまで想像であるが」という前置きで語っておられますが、実際問題として通常よりも遥かに子供を持てる機会が多かったであろう秀吉が淀殿が産むまで、1人の子供も授からなかった、という事実を考えると、十分にあり得る話ではないかと思われます。

 おたふく風というのは世界的な病気で当時の日本でもかかる可能性が高かった病気で、むしろ衛生状態の良くない後進国で流行る傾向があります。そして当時の日本は現在の「後進国」並みの衛生状態であったと想像できるので篠田氏の意見は決して、的外れではないのです。確認はできませんが、好色を公言していた秀吉が、それまで誰一人として妊娠させられなかったことを考えると、むしろ、あり得る話だと思いたくなります。

 おたふく風にかかると、およそ20%の男性は精巣炎か副精巣炎を併発します。もし両方が発生すると、精子の製造が止まってしまい、いわゆる「男性不妊症」という状態になり、これは一生涯続きますが、その発生率は決して高くはありません。つまり、おたふく風にかかった男性は必ず不妊症になるという訳ではないのですが、一定数の数少ない患者には発生してしまうのです。また「無精子状態」にまで行かなくても「通常よりも低い精子製造能力」になってしまうこともあり、これも結果的に「男性不妊症」となってしまいます。

 唯一の反論材料は秀吉が近江長浜城主時代に石松丸(いしまつまる)と言う男児をもうけたと伝えられていることです。長浜に今も伝わる曳山祭というのは、城主である秀吉に男児が生まれたことを祝ってのことである、とも伝えられています。しかし、母親は不明で石松丸も推定6歳で病死しており、本当に実子であったかどうかは分かりません。実は養子であった可能性も十分にあり反論材料としては十分ではないのです。

秀頼に対する周囲の反応

 実は成長した秀頼は背が高く、秀吉とは似ても似つかぬ好男子であり、大阪の町民は「ほんまに太閤さんのお子かいな」と噂しあったそうです。それ位に秀頼と秀吉は体格、容貌などが違っていたのです。

 仮の話ですが、淀殿が大阪城内で秀吉ではない誰かと不倫をしていたとする場合、その相手は必ずや「淀殿が気にいった相手」であり、当時、22歳前後であった淀殿が選びそうな相手は多分、「背の高い好男子」であったであろうと想像されます。

 しかし、淀殿が本当にそんなことをするでしょうか?もし秀吉にばれたら命の危険もあったでしょう。命を失う危険を冒してまで、不倫を行ったとすると、何かもっと強い理由が必要と思われます。

淀殿の不倫の可能性

 そもそも他の側室とは違い、淀殿にとって豊臣秀吉は実父である浅井長政を殺した相手であり、かつ継父である柴田勝家と実母であるお市の方を殺した相手でもあります。本来なら「不倶戴天の敵」であるはずなのに、すんなりと側室になることを承諾しているというのは、少しおかしいのではないでしょうか?

 実は、浅井三姉妹を描いた物語では、必ずこの点をどう理由づけるかに苦労しているのです。多くは「秀吉という人物に惹かれたから」という理由付けをしているのは「少々、苦しい」と言わざるを得ません。仮に絶対権力の持ち主の命令だから、仕方が無かったとしても、わざわざ不倫してまで子供をもうけ、秀吉を喜ばす必要などなかったはずです。これには何か理由がないと説明がつかない、というのが実感です。

 そして、その理由を説明している小説が存在するのです。それは徳永真一郎氏の書いた「淀君」という小説です。徳永信一郎氏は吉川英治賞も受賞している立派な歴史作家ですが残念ながら出典を示しておらず、真偽のほどは不明ですが、茶々が秀吉の側室になることを承諾し、子供をもうけたかった理由が書かれているのです。以下に核心部分を多少、省略して記してみます。

賤ヶ岳の合戦で勝った秀吉軍は、ついに本丸にまで迫っていた。この夜、勝家は、もはやこれが最期と覚悟し、一族および近臣八十余人を本丸の天守に集めて訣別の宴を開いた。そして十七歳の茶々は、訣別の宴がたけなわになったころ、ただ一人、母のお市の方から別室に呼びこまれ、以下のように言われた。

「茶々、そなたは、この母がそなたの父上に嫁いできたときの年ごろゆえ、これから申すことは、よくわかると思います。心を静めて、ようきいてたも。そなたの父上は、小谷城の落城で自刃されるとき、わたくしがお供を願うても許されなんだ。そして、そなたやお初やお江の成長を見守り、わしの菩提を弔うてくれ、といわれた。

それから十年、そなたたちは、みんなそろって立派に成長してくれた。柴田の義父上は、わたくしのお供を許して下さった。ただ、お前たちは城の外へ出すようにいわれた。城が落ちるとき、城主が真っ先に自刃し、その妻がお供をするのは、戦国の習わし、当然のことではありますが、わたくしが、嫁いできてまだ一年もたたぬ、義父上にお供を願うたにはもう一つ理由があります。それは、わたくしは、秀吉の側室になりたくなかったからです。こんどの戦さは、あの男が、わたくしを柴田の義父上に奪われた腹いせもあるとききました。そなたも、これから城を出て、あの男の庇護の下に暮らすようになったら、あの男のことだから、わたくしの代わりに、そなたを側室にというてくるでしょう。そのときそなたは、自害したりしてはなりませぬぞ。あの男に身をまかせる代わりに、子どもを産むのです、しかも男の子を。その男の子は、浅井と織田の血をうけた子です。その男の子に、秀吉の天下を継がせるのです。それが、秀吉に殺されたそなたの父上や、この母の菩提を弔うただ一つの道なのです。

この鏡は、浅井家に嫁いできたときから、この母が、肌身はなさず持っておったものです。これをわたくしと思うて、短気を起こさず、そなたの父上や母の怨念を晴らしておくれ。死ぬよりつらい務めではあろうが、この母の最期の頼みと思うて、きいておくれ」

 まるで目の前で聴いてメモしていたかのように詳しい内容で、ここまで詳細な内容が史料に残っているとは、とても思えませんが、徳永信一郎氏はこの時の宴の様子を、かのルイス・フロイスの手記より、という形で書かれています。

 ルイス・フロイスは文筆の才があり、戦国時代の歴史を『日本史』という著作を始め、色々な著作で残しているので参考資料として非常に重宝されています。彼は織田信長の信頼を得て日本全国をめぐって見聞を広めていたので、当時、柴田勝家の居城にいても、おかしくはありませんが、居たという証拠もありません。ですので、どこまで信用性があるのかは判然としませんが、確かに、これなら淀殿が「すんなりと側室になった理由」「子供が欲しかった理由」の両方が説明できます。

 実は先に挙げた篠田達明氏も「これも、あくまでも想像だが、淀殿は母のお市の方から何か言い含められたのではないだろうか」と書かれており、やはり「お市の方原因説」を指示していらっしゃいます。

 また、これはあくまで私の想像ですが、いくら母にそう言われても茶々としては「秀吉の側室になって子を産めば良いのだから、何も秀吉が実父である必要はないし、そうしたくもない」と思った可能性もあると思います。むしろ、不倫をして本当は秀吉の子ではないのに、秀吉の跡を継がせる、とした方が茶々の復讐心は、より満足できる結果となるはずだからです。

真実は闇の中

 残念ながら「淀君」を書かれた徳永真一郎氏は既にお亡くなりになっており、参考文献をお尋ねすることはできません。また、歴史小説というのは「歴史を題材とした小説」であり、必ずしも史実に正確である必要はなく、物語を面白くするために多少の修飾を行うのは当然でもあります。ですので、先のお市の方の言葉を「事実」だと断定することは出来ませんし、おそらく裏付けできる史料も無いと思います。

 ルイス・フロイスを持ち出して来たのも「信憑性を高める修飾の1つ」として捉えた方が良いのでしょう。しかし、この言葉は現実に茶々が取った行動を見事に説明している、というのも事実です。もし秀吉と秀頼のDNAが判定できる物証が残されていれば立証できますが、それはもはや不可能でしょう。つまり「真実は闇の中」なのです。

 変な例えをしますと、夫婦であっても父親は子供が「本当に自分の子であるかどうか」はDNA鑑定でもしなければ分かりません。それに対し、母親は実際に産んでいるのですから「間違いなく母親」です。つまり真実は「母親だけが知っている」のです。ですので全くの第三者である私達には、例えどんな文献が残されていたとしても「本当の真実は分からない」のです。これは女性だけが持つ生きるうえでの武器、と言っても良いでしょう。

 もし茶々が母の言う通りに行動し、我が子に天下を取らせようと考えていたとしても、実際には豊臣は徳川に滅ぼされているので、茶々の思惑は失敗した、ということになります。ただ、ご存じのように三女の江が徳川家に嫁いでおり、徳川家が天下を取ったということは、茶々の代わりに江が努めを果たしたと言えるのかもしれません。

 なお、別稿でも示しましたが、3代将軍の徳川家光は江の子供ではない可能性が指摘されており、「浅井の血筋が天下人となった」とは断定はできません。しかし江と先夫である豊臣秀勝の間に生まれた完子は貴族である九条家に嫁ぎ、その九条家から節子様が大正天皇のお后となられたことで浅井の血統は天皇家に引き継がれているのです。そして江が徳川家に再嫁する時に完子を大阪に残すよう説得したのは淀殿であり、完子を九条家に嫁がせるよう、取り計らったのも淀殿です。


 戦国時代という弱肉強食の時代に貴族階級は完全に「蚊帳の外」でしたが、それは「安全地帯」ということでもありました。浅井の血統を残すため、という意図が淀殿にあったという推測が、ここでも成り立つのです。そして明治時代になると、天皇陛下が「絶対的存在」となり、それは浅井の血統を引き継ぐ昭和天皇の時代まで続きました。

 現在でも天皇家は「日本の象徴」という形で存続しているのはご存じの通りです。つまり、お市の方が予想した未来を遥かに超えて浅井の血統は現代に引き継がれており、それを取り計らったのは淀殿である、と言えるのです。そういった意味では「立派に務めを果たした」と言えそうです。げに恐ろしきは女人かな、というところでしょうか。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
なのはなや さん
趣味で歴史を調べています。主に江戸時代~現代が中心です。記事はできるだけ信頼のおける資料に沿って調べてから投稿しておりますが、「もう確かめようがない」ことも沢山あり、推測するしかない部分もあります。その辺りは、そう記述するように心がけておりますのでご意見があればお寄せ下さい。

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