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徳川と深い関わりのある「一心寺」と大坂の陣
- 2024/07/05
2023年の大河ドラマの主役でもあり、今人気の戦国武将・徳川家康。愛知や静岡、そして都を置いた江戸(東京)にはゆかりの地が多くありますが、関西にはあまり縁がないと思われがち。しかし大阪・天王寺には徳川と深い縁があるお寺があるんです。
今回は「一心寺」についてご紹介していきます。
今回は「一心寺」についてご紹介していきます。
一心寺と徳川のエピソード
一心寺は文治元年(1185)、浄土宗の開祖法然上人が開いたお寺。沈む夕陽に向かって極楽浄土を瞑想する修行「日想観」の修行をした場だといいます。そんな一心寺が徳川家康と関わりを持つようになったきっかけは1600年のこと。徳川家康と深い3つのエピソードをご紹介します。
千千代の葬儀
1600年に徳川家康の8男・仙千代が大坂で夭折し、その葬儀は一心寺で行われました。千千代は徳川家重臣の平岩親吉の養嗣子になりましたが、6歳で亡くなっています。葬儀には家康が関わっていたそう。家康が浄土宗の信者だったことや、同郷の僧がいたことなどが縁で、一心寺に決まったといわれています。その際、家康は境内の坂の孤松を見事だといい、「坂松山」の山号を贈り、仙千代の戒名である「高岳院」の院号とあわせ、一心寺は「坂松山高岳院一心寺」という名前になったそうです。
大坂冬・夏の陣で本陣を置く
大坂冬の陣・夏の陣において、徳川家康の本陣が置かれた場所がここ、一心寺でした。当時、大坂城攻略において重要な場所とされた茶臼山の真隣にある一心寺ですが、大坂冬の陣(1614)においては茶臼山と一心寺周辺に徳川家康が本陣をおき、一方その後の夏の陣(1615)では茶臼山には真田幸村が陣を置き、真隣である一心寺周辺にいた徳川家康とは至近距離でにらみ合いました。実際、激戦となって家康は真田幸村に追い詰められることに。その時に家康を救ったと伝わる「きりふりの松」が今も境内に残っています。
なお、真田幸村は家康の首をとり損ねた後、敗退を余儀なくされ、近くの安居天満宮で亡くなることに。安居天満宮は真田幸村の戦没地として有名で、今でも記念碑や銅像が残っています。
本多忠朝の墓がある
徳川四天王のひとり、本多忠勝の次男であった本多忠朝。関ケ原の戦いで武功をあげましたが、大坂冬の陣では酒の飲みすぎで敗退。家康に叱責され、翌年の大坂夏の陣では汚名返上しようと最前線で戦い戦死してしまいました。亡くなる直前に、「酒のために身をあやまる者を救おう」と言い残したことから”酒封じの神”と崇められるようになり、多くの人が訪れるようになったそうです。境内には今でも断酒祈願のしゃもじがたくさん奉納されています。
戦国めぐりができる天王寺界隈
一心寺と徳川家康の関係についてご紹介してきました。このあたりは大坂夏の陣で激戦地になった場所なので、茶臼山などの史跡と合わせて巡ってみるのも良いかもしれません。徳川家康や真田幸村など名だたる武将たちのいたスポットがたくさん残っています。一心寺は天王寺駅からも徒歩で行ける場所にあるので、比較的訪れやすい場所です。ぜひ訪れて思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
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