「佐々木道誉」自由奔放なバサラ大名は政治勘抜群 尊氏が生涯信頼した盟友
- 2024/01/25
佐々木道誉(ささきどうよ、1296~1373年)は南北朝時代を代表する武将で、この時代を象徴する風潮、バサラ(婆沙羅)でも知られています。派手好きで無遠慮に振る舞い、自由奔放。しかし、政治的には足利尊氏に終生従い、尊氏死後も2代将軍・足利義詮をしっかりと支え、室町幕府宿老としての立場を固めました。意外と堅実でしたたかなのです。佐々木道誉の生涯をみていきます。
配流への後醍醐天皇の道中を警護
佐々木道誉は、宇多源氏の流れをくむ佐々木氏庶流の京極氏出身。佐々木(京極)宗氏の三男で、宗氏の従兄弟・貞宗の養子となります。実名は高氏(たかうじ)。法名は自署だと「導誉」で、本来は「京極高氏」、「京極導誉」と記すべきかもしれません。しかし、31歳で出家して早くから法名を使い、『太平記』だけでなく、同時代史料も「道誉」と書く例が多いようです。また、数々の戦功によって足利尊氏から佐々木氏惣領と認められました。「佐々木道誉」の呼び名が定着し、しっくりきます。
北条高時に追随し出家
佐々木道誉は北条高時の側近・御相伴衆でした。実名「高氏」も高時の一字を受け、出家も嘉暦元年(1326)、高時に追随したもの。鎌倉幕府有力御家人として執権・北条氏との関係は密接でした。一方で朝廷の官職もあり、正中元年(1324)3月、後醍醐天皇の石清水八幡宮(京都府八幡市)への行幸では検非違使が務める任務を果たしています。
北畠具行との処刑前の交流
後醍醐天皇の倒幕計画が発覚した元弘の変で佐々木道誉は、元弘2年(1332)3月、後醍醐を配流先の隠岐へ送る道中を警護しました。石清水八幡宮への行幸を思い出す後醍醐の和歌に涙します。一方で倒幕計画に関わった後醍醐側近の貴族・北畠具行(ともゆき)を斬首。近江・柏原(滋賀県米原市)の屋敷に留め置いて何かと親切に世話し、幕府の催促でいよいよとなったとき、互いに涙を流して言葉を交わす場面があります。いずれも早くから後醍醐天皇に同情していたとも思える『太平記』の逸話ですが、後付けの創作かもしれません。
寝返り御免 バサラの生き方
元弘3年(1333)の鎌倉幕府滅亡後、佐々木道誉は足利尊氏に従って行動しています。このころの詳しい動向は不明。ただ、幕府の出先機関、京の六波羅探題から退却した北条仲時は近江・番場宿(滋賀県米原市)で盗賊らに行く手を阻まれ、一族432人が自害しており、一帯を所領とする道誉の関与は想像できます。中先代の乱 相模川先陣
佐々木道誉は建武2年(1335)8月、北条時行ら北条氏残党の挙兵、中先代の乱(なかせんだいのらん)でも戦功があり、足利尊氏から上総、伊豆に所領を与えられました。※ 中先代の乱
建武2年(1335)、北条高時(たかとき)の遺児である時行(ときゆき)が鎌倉幕府再興を企図し、建武政府に対して起こした乱。
(出典:コトバンク)
この戦いは当初、北条勢が優勢で鎌倉を占拠しますが、尊氏が京から援軍を率いて形勢逆転。敵を押し込みます。道誉は相模川の戦いで北条勢と対峙。兵たちに相模川の渡河強行を命令します。
道誉:「敵が道を塞ぐならほかに方法はない。先祖の美談を今に生かそう。この川を渡らないことにはわれらの勝利はないのだ」
『太平記』の書きぶりは一族の祖先・佐々木高綱による『平家物語』の名場面、宇治川の先陣が意識されています。道誉は敵2人を川中で斬って岸に上がります。
道誉:「このたびの相模川の先陣は佐々木佐渡判官入道が務めたぞ」
激流に押し流されて落馬、溺死する武将もいましたが、大勢の兵は渡河。北条勢を退却させました。
新田義貞に降伏、また寝返り
この後、足利尊氏は後醍醐天皇に離反。佐々木道誉は足利勢に従いますが、尊氏は宮方(後醍醐側、後の南朝勢力)との戦いに躊躇。建武2年(1335)12月、駿河・手越河原(静岡県静岡市駿河区)での激戦では道誉も苦戦し、新田義貞に降伏します。しかし、尊氏が戦線復帰を決断すると、足利勢は盛り返します。箱根・竹ノ下(静岡県小山町)の戦いでは、新田義貞に従っていた道誉が寝返って新田勢を混乱させ、足利勢の勝利に貢献します。偽りの降伏で近江制圧
建武3年(1336)1月、足利尊氏は入京しますが、宮方の新田義貞、楠木正成、北畠顕家が反撃。2月、敗れた尊氏は九州へ撤退しました。佐々木道誉は同行せず近江に残ったようです。この後、足利尊氏は九州から攻め上り、京を奪還。宮方は比叡山に撤退します。道誉は小笠原貞宗と協力し、近江で比叡山の僧兵や新田勢などと戦いますが、『太平記』では道誉が一時的に宮方に降伏する場面があります。
道誉:「近江は佐々木氏が代々守護を務める国ですが、小笠原貞宗が合戦に及び、その武功で近江を自分のものにしてしまい、道誉は面目を失いました。もし、恩賞に近江守護をいただけるなら、直ちに貞宗を追い出し、すぐにも官軍(宮方)のために近江国内を平定します」
後醍醐天皇も新田義貞も道誉の魂胆を見抜けず、「もっともである」と降伏を受け入れます。道誉は近江に攻め込み、たちまち支配。小笠原貞宗には「近江は将軍から賜った」と伝えて、さっさと追い出し、道誉は比叡山を攻めます。だまされたと分かった宮方が軍勢を送ったときは手遅れ。道誉は比叡山への補給路遮断に成功しました。
敵も味方もだまして戦功を独り占めする自由奔放な戦いぶりで、まさにバサラ大名の本領発揮。ただ、『梅松論』などと比べると、『太平記』の創作の可能性が高いようです。
この後、後醍醐天皇は吉野に南朝を樹立。2つの朝廷の並立する南北朝時代に本格的に突入します。
流罪道中酒宴 妙法院焼き討ち
暦応元年(1338)4月、佐々木道誉は近江守護に補任されます。近江守護職は佐々木氏惣領・六角氏が代々継承していて、京極氏である道誉への補任は異例。足利尊氏は道誉の立場をかなり尊重していたようです。山門敵視、反省の色なし
暦応3年(1340)10月、佐々木道誉は妙法院放火事件を起こします。妙法院は比叡山延暦寺の天台三門跡(別格の寺院)の一つで、門主(住職)は光厳上皇の異母弟・亮性法親王。紅葉狩りの帰り道、若侍に妙法院の紅葉の枝を折らせますが、僧兵とのけんかに発展し、報復として道誉は300騎で妙法院に押し寄せました。
比叡山側(山門)は厳罰を求め、道誉、秀綱父子は流罪となりますが、見送りと称して従う若武者たちは比叡山の神獣である猿の皮の矢入れに猿の皮の腰当てをするという面当て。その道中も酒宴を催し、遊女も呼んでにぎやかに過ごし、反省の色はなく、山門への強烈な挑発でした。
足利尊氏も道誉を重く罰するつもりはなく、むしろ比叡山僧兵を敵視する感情は同じ。騒動そのものに尊氏らの暗黙があった可能性もあります。
戦いぶりは勇猛 数々の戦功
時に偽装降伏をしたり、敵味方を入れ替えたり、裏切りを恥とする武士の作法からも自由だった佐々木道誉ですが、本質的には勇猛で、数多くの戦功を誇る武士らしい武士です。貞和4年(1348)1月、高師直が南朝・楠木正行を倒した四條畷の戦いでは道誉も戦功があり、2月、尊氏から正宗の太刀を贈られます。一方で身内も数多く戦死。建武2年(1335)12月の手越河原の激戦では弟・貞満が討ち死に。貞和4年(1348)2月の吉野攻めでは道誉と長男・秀綱が負傷し、次男・秀宗が戦死。秀綱も文和2年(1353)6月、新田残党との戦いで戦死。その秀綱の子である佐々木秀詮、氏詮兄弟(道誉の孫)は貞治元年(1362)、南朝・楠木正儀(まさのり、楠木正行の弟)との戦いで戦死します。
立花や連歌、聞香…多趣味な道誉
佐々木道誉は多趣味で、立花や連歌、茶の湯、聞香を嗜み、田楽などの芸能を支援しました。連歌は長短の和歌を数人で続けていく遊び。道誉の作品は『菟玖波集』に多数収録されています。また、立花は生け花のことで、『立花口伝大事』は道誉が編集したともいわれています。
香木の香りを鑑賞する聞香では8代将軍・足利義政に「道誉所持百八十種名香」というものが伝わっています。茶を飲み比べて銘柄を当てる遊び、闘茶(茶寄合)も趣味の一つでした。当時は娯楽、かけ事の側面もありましたが、現代の華道や茶道、香道など伝統の芸事につながります。また、田楽、猿楽といった芸能を愛好し、支援。能への発展を支えています。
ライバル蹴落とす大野原花見
足利尊氏と弟・足利直義が対立した観応の擾乱では、佐々木道誉は尊氏に従いました。この戦いのなかで、観応2年(1351)7月、道誉と播磨の赤松則祐に謀反の疑いありとして、尊氏は近江、足利義詮は播磨へ出兵しますが、これは尊氏と道誉によって京に残った直義を挟み撃ちにする策略。これを察した直義は京を脱出します。もし、道誉が裏切ったら作戦は破綻。尊氏の信頼の大きさが分かります。南朝・楠木正儀への屋敷明け渡し
足利尊氏は延文3年(1358)に死去しますが、佐々木道誉はこの後も足利義詮を支え、幕府宿老として活躍します。仁木義長、細川清氏ら有力武将の失脚も『太平記』では道誉が黒幕になっています。失脚した細川清氏は南朝に降伏し、康安元年(1361)12月、楠木正儀とともに京に攻めます。京を脱出するとき、道誉は「この屋敷は名のある武将が占領するだろう」と、屋敷を立派に飾り立てます。部屋に掛ける絵、花瓶、香炉、茶釜を一級品でそろえ、食事と酒も用意。この屋敷に入ったのが楠木正儀で、敵の屋敷だから焼いてしまえという声もありましたが、正儀は道誉の粋な計らいに感じ入って略奪することなく、南朝が京を撤退する際も酒肴もより豪華に整え、秘蔵の鎧に銀細工の太刀まで置いていきます。この粋なやりとりをほめる人もいれば、「楠木は老練なばくち打ち(道誉)に鎧と太刀を取られた」と笑う人もいました。
斯波高経失脚の旗振り役
佐々木道誉は貞治5年(1366)ごろ、五条大橋の建設を任されますが、工事は遅れ、結局、代わって斯波高経が難なく工事を済ませ、道誉は面目を失いました。斯波高経は足利氏の有力一門で、観応の擾乱では足利直義についたこともあります。それでも政治力も武力もあり、このころは幕府随一の実力者にのし上がっていました。その斯波高経が将軍邸で開く花見の日に合わせて道誉は大原野で盛大な花見を開き、芸達者を京中からかき集めます。子供っぽい意趣返しにみえますが、斯波高経に反感を持っていた武将たちを煽り、この後の斯波高経失脚の旗振り役をしたのです。
おわりに
佐々木道誉は時に宗教的権威や政敵となった有力武将に挑戦するばくち打ちのような面もあり、偽装降伏などの奇手も繰り出しています。生き方は自由自在で、まさにバサラ大名の面目躍如といったところ。一方で武将としては模範的な面もあり、将軍・足利尊氏には終生従い、戦場では命を賭して勇猛に戦いました。高師直、足利直義といったナンバー2ともいえる存在が滅んだ後も幕府宿老として残り、難しい時代を見事に生き抜いたしたたかさもありました。
【主な参考文献】
- 兵藤裕己校注『太平記』(岩波書店、2014~2016年)岩波文庫
- 林屋辰三郎『佐々木道誉 南北朝の内乱と〈ばさら〉の美』(平凡社、1995年)
- 寺田英視『婆娑羅大名佐々木道誉』(文藝春秋、2021年)文春新書
- 亀田俊和、杉山一弥編『南北朝武将列伝 北朝編』(戎光祥出版、2021年)
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