本当は恐ろしい荼枳尼天、その正体はインドの森を彷徨うジャッカルの精霊!
- 2023/11/24
天部の一員でありながら、とかく妖しいイメージがつきまとう荼枳尼天(だきにてん)。美しい女性の姿で表されることも多いのですが、その正体はどのようなものでしょうか。
生まれはインド デカン高原、ジャッカルの精霊として誕生
荼枳尼天は仏法の守護神である天部に名を連ねており、同時にヒンドゥー教の女神でもありますから普通は崇められる存在です。しかしなぜか恐ろしげなイメージがつきまといます。問題はそもそもの出自にあるようで、荼枳尼天はインド・デカン高原の森をうろつき、死肉を漁るジャッカルの精霊として誕生しました。現地名をダキニ(ダキーニー)と言い、最初は死肉だけでなく、生きた人間を襲ってその肉や肝も喰らっていました。
仏陀に殺生を咎められ、生肉を喰らうことを禁じられますが、人を食わなければ生きていけないと泣きつき、「死肉なら食っても良い」と許されます。同時に人間がいつどこで死ぬかを6ヶ月前に知る知恵を授けられ、6ヶ月の間、その人間を守って他の強大な魔物に獲物を取られないようにしろ、とも教えられます。
お釈迦様も慈悲深いんだかどうなんだか。この能力を授けられたおかげで、「人の寿命を計る者」「人間に死期を告げる存在」と見なされ、かえって死神の使いのようなイメージが加わってしまいました。
シヴァ神にも責められ…
それでもなお、死肉ばかりあさることを、今度はヒンドゥー教の3柱の主神・シヴァ神に責められます。脅されたダキニは、シヴァの妻である殺戮の女神・カーリーの侍女にされてしまい、ここで女性属性が加わります。ダキニは精霊となった当時、デカン高原付近に住む部族の間で祀られていただけでしたが、カーリーの侍女となったことで広く名前が知られるようになりました。
もっともこのカーリー女神もなかなかの者で、シヴァの妻ではあっても血と殺戮を好む戦いの女神であります。その侍女となったからと言って、ダキニの恐ろし気な印象が拭われることはなく、むしろその手先となり、恐ろしさは倍増したぐらいです。
現実的な死体の処理法尸陀林
ところで「尸陀林(しだりん)」と言うものをご存知でしょうか? もともとは古代インドの中央部で栄えたマガダ国の埋葬地を指します。王宮の北方にあって、埋葬地といっても庶民の死体は丁寧に土に埋めることなどはせず、地面に放り出し、後の始末は鳥獣に任せました。「寒林」「屍陀林」「尸林」とも書き、現地では「シュマシャーナ」と呼びます。
中世インドでは大きな都市の傍らに普通に設けられ、腐敗しやすくて遠くへ運べず、疫病の感染源ともなる死体の処理方法として採用されました。古代においてはこの現実的な処理法を取った国も多く、日本でも平安京の「鳥辺野(とりべの)」が知られています。そしてダキニが生まれたインド・デカン高原の森も、こういった「尸陀林」のひとつだったのです。
インドの「尸陀林」は、しばしば罪人の処刑場を兼ねることも多く、首を切られたり串刺しの刑に処せられた死骸がそのまま放置され、晒されました。この場所を敢えて修行の場に選ぶ行者もいたようで、ジャッカルがうろつき、死臭が漂う薄暗い森で座禅を組みます。朽ちて行く人間の体を見つめて、諸行無常の思いを深くしたのでしょうか?
ジャッカルと荼枳尼天と狐の関係
最初に述べたように、ダキニはジャッカルの精霊としてインドで誕生し、狐とはかかわりのないものでした。しかし現在日本では稲荷信仰と混同されたり、絵姿で表す時も狐に乗った美しい女神の姿で描かれることが多いのです。大陸から渡って来た九尾の狐の正体こそ、ダキニであるともされます。この混同は、ダキニが仏教の天部として取り込まれた後に中国に伝わり、そこで狐と関連付けられたためと思われます。中国にはジャッカルがいなかったので、ダキニの本体を託すのに似た姿をした獣を探し、狼や犬・狐が候補に上がりました。
”狼”は孤高の獣とされ、死肉漁りの卑しいイメージがなく、”犬”は人間と心を通わせる身近な動物でしたので除外されます。そこで中国でも美女に化けて男をたぶらかす話が伝わる”狐”が引っ張り出されました。この関係性がそのまま日本に持ち込まれ、日本で盛んな稲荷信仰と混同されます。
しかし稲荷は神道の神、ダキニは仏教に取り込まれた神であり、本来は別の存在です。まして稲荷の狐は眷属であり、稲荷神そのものではありません。しかし混同されてから年月が経ち、現在では同一視されることも多いようです。
荼枳尼天法
荼枳尼を祀る荼枳尼天法は一心に祀れば福徳を授けてくれますが、途中で祀るのをやめると恐ろしい報復を受けると言われます。「我を崇めよ福徳を授けようぞ。だが裏切りは許さぬ」と言うのですね。祀り始めたその者一代はどうしても祀り切らねばなりません。それ故「祀るのが難しい神」「迂闊に祀ってはならぬ神」と遠ざけられますが、どうしてもかなえたい望みを持つ人間はその力に縋ります。
荼枳尼天法は桃の枝で男女の人型を作り、それに烏の羽を抱かせて縛り合わせたり、陰陽の護符を巻き付け黒い糸で縛ったりと怪しげな呪法が用いられます。
日本で荼枳尼天法を行なった人物としては平清盛が知られます。
若い頃、洛北の蓮台野で狩りをしていた清盛の乗馬の前を、1匹の白狐が横切りました。良き得物と矢をつがえるとその狐は振り向き「我は荼枳尼天なり。わが命助ければいかなる望みもかなえよう」と言います。驚いた清盛は馬から飛び降りて平伏し、天下を手に入れたいと望みます。
狐は美女に姿を変え、望みをかなえるにはよくよく精進するようにと言い残し、何処ともなく消えて行きました。以後、清盛は清水寺への千日詣でなど多くの仏事・神事を行い時を待ちましたが、やがてひと時であったにせよ「平氏に非ずんば人に非ず」の治世を築きます。しかし最後は熱病におかされ、悲惨な死を遂げました。
荼枳尼天を祀り切れなかったせいかどうかはわかりませんが。
戦国時代にも天下を望む多くの武将たちがその力を得ようとし、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康をはじめ、幾人もが荼枳尼天を祀ったと伝わります。
おわりに
美しくも禍々しい怪しさを秘めた荼枳尼天ですが、正体は屍肉を漁るジャッカルだったのですね。昼なお薄暗いあちこちに死体が散らばる尸陀林で、屍肉を求めて彷徨うダキニ、その傍らで座禅を組む修行者、インド的混沌ですねぇ。【主な参考文献】
- 大森惠子『稲荷信仰の世界 稲荷祭と神仏習合』(慶友社/2011年)
- 伏見稲荷大社社務所/編集『朱 第53号』(伏見稲荷大社/2010年)
- 原典訳/川崎信定/訳『チベットの死者の書』(筑摩書房/1993年)
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