「高師泰」逆ギレ殺人、聖徳太子像破壊…師直以上に悪逆非道?
- 2023/11/29
南北朝時代の武将、高師泰(こうのもろやす、?~1351年)は兄弟である高師直と同様、足利尊氏に仕えました。軍事的才能は師直に匹敵する武闘派。一方で『太平記』は師泰の器量は師直に及ばないとしたうえで、戦功におごり、激昂しやすい人物と評しています。
その傍若無人ぶりを示す悪逆非道エピソードは、貴族殺害、仏教に対する冒瀆など、師直以上に強烈です。はたしてその実像は? 高師泰の生涯をみていきます。
その傍若無人ぶりを示す悪逆非道エピソードは、貴族殺害、仏教に対する冒瀆など、師直以上に強烈です。はたしてその実像は? 高師泰の生涯をみていきます。
高師泰は師直の兄か弟か
高師泰は高師重の子で、高師直の兄弟ですが、どちらが兄かは両説あります。師泰を兄とする説。「清源寺本高階系図」に師泰を「四郎」、師直を「五郎」と書いてあります。高氏一族の南宗継が開基した清源寺(栃木県足利市)が所蔵する系図は、「尊卑分脈」などほかの系図とは多少違いがありますが、比較的信頼性の高い史料です。
師泰を弟とする説。太政大臣・洞院公賢の日記『園太暦』に「(師直の)舎弟師泰」との記述があります。同時代の貴族が書いた日記なので系図類より信頼性は高いのですが、武士の官職などには誤記もあります。武士への関心は低かったかもしれません。
「高」は苗字ではなく氏族名
高師泰の名は「こうのもろやす」と「の」を入れて読みます。これは「藤原」(ふじわらの)や「源」(みなもとの)などと同じ。「高」は苗字というより、「藤原」や「源」、「平」同様、氏族名なのです。源氏である足利氏も下野・足利荘(栃木県足利市)を苗字の地としているように、この時代の武士は本拠地に関わる苗字を名乗っていて、高氏は珍しい例です。
もともとの氏族名は高階(たかしな)。「高」はその省略形。先祖は天武天皇で、高市皇子、長屋王と続き、長屋王から5代目の峯緒王が臣籍降下して高階氏に。何代か続いて高階惟孝の子・高惟頼あたりから「高」と名乗ります。
高惟頼は源頼義、義家父子に従い、前九年合戦(1051~62)、後三年合戦(1083~87)に参戦。その子・高惟貞は源義国(義家の子)とともに足利荘に移ります。源義国の子・足利義康が足利氏の祖となり、高氏は代々、足利氏の執事を務めていきます。
北畠顕家、新田義顕を討伐
高師泰は、建武4年(1337)3月、越前・金ケ崎城(福井県敦賀市)を陥落させ、新田義顕(新田義貞長男)を討伐し、恒良親王(後醍醐天皇第5皇子)を捕えます。暦応元年(1338)5月の和泉・堺浦(大阪府堺市)などの石津の戦いでは高師直とともに北畠顕家を討ち果たしました。また、暦応2年(1339)から翌年にかけて遠江で宗良親王(後醍醐天皇第4皇子)率いる南朝軍を攻撃。宗良親王を遠江から追い出します。
貞和3年(1347)には楠木正成遺児・楠木正行討伐のため河内に出陣。貞和4年(1348)~貞和5年(1349)には河内に駐屯し、南朝勢力と戦いました。
「帝や院は木でも金でも」師泰の発言?
高師直を象徴する話として、『太平記』には「王(天皇)だの院(上皇)だの必要なら木彫りや金で作り、生身の王や院は流してしまえ」という暴言があります。これは反師直派の僧侶・妙吉による足利直義への告げ口内容であり、直接、師直の発言としては書かれていません。一方、『太平記』の中にはこの暴言の発言主を高師泰とする写本もあります。
天正本『太平記』の記述
同じ『太平記』でも写本によって内容が違い、いくつか系統があります。天正本という系統の『太平記』写本は、高師泰の数々の悪行を示した章段の最後に師泰の発言があります。師泰:「武家(幕府)が万事取り計らっているのだから、王がいなくても何の不便もない。王や院は木彫りにするか、金で鋳造するか、2つのうちから選べばいい。本当の王や院は流してしまうのが天下のためにもよく、えこひいきもない」
師泰が日頃たたいていた大口の一例として登場。暴言の主は師直か師泰か、同じ『太平記』でも写本によって違うのです。どちらにしても、創作か誇張ですが……。
山荘建設のため貴族の墓所破壊
『太平記』は高師直の好色ぶりをあげつらったうえで「これらはまだ軽い方である。伝え聞く師泰の振る舞いこそ常識を超えるものだ」として、高師泰の悪行を列挙します。まず、山荘建設のため土地を求め、土地を譲った菅原在登の返事を曲解します。
在登:「先祖代々の墓所を移すので少しお待ちいただきたい」
師泰:「もの惜しみしているのだな」
墓所を掘り崩して整地を進め、この暴挙を嘆く落書が出ると、腹を立てます。
師泰:「菅三位(菅原在登)の仕業だな。けんかを装って殺してしまえ」
皇族の寵童を使って菅原在登を殺害。また、山荘の工事現場で休みなく働かされる労働者を見た侍2人が「そこまで痛めつけなくてもいいのに」とつぶやくと、伝え聞いた師泰はまた激怒。
師泰:「そんなに同情するなら、そやつらを使えばいい」
侍2人を捕え、猛暑のなかこき使います。
そのほか、寺院の塔のてっぺんにある九輪を溶かして茶を沸かす釜にしてしまい、師泰は茶のおいしさに満足したという逸話もあります。
軍事費捻出のため略奪行為も
『太平記』の記事は創作交じりですが、観応元年(1350)5月、菅原在登が若者に殺害される事件は実際に起きています。ただ、師泰関与を示す史料はありません。なお、『園太暦』は、貞和4年(1348)1月、師泰が聖徳太子廟(大阪府太子町)を焼き払い、太子像を破壊したことや軍事費捻出のため河内での略奪行為を指摘しています。また、別史料でも師泰の部下が河内で有力寺院領を侵略したことが確認されます。
史実としての師泰の侵略行為が僧、貴族、守旧派の反感を買い、『太平記』での悪逆非道ぶりにつながったようです。なお、同じようなことは多くの武将がやっていて、高師泰、師直兄弟の悪行が突出していたわけではありません。
観応の擾乱 師直とともに惨殺される
最有力武将として威勢を誇った高師泰、師直兄弟ですが、室町幕府の政務を取り仕切る足利直義との対立が深まり、幕府内紛、観応の擾乱へと発展します。直義派による師直暗殺未遂や師直の執事解任と事態が深刻化するなか、貞和5年(1349)8月9日、師泰が上洛します。8月14日には直義が逃げ込んだ足利尊氏邸を包囲し、形成逆転。師直の執事復帰で妥協が図られました。12月に足利直義は出家。直義派の上杉重能、畠山直宗は配流先の越前で殺害されます。
直冬討伐に苦戦し、石見撤退
足利直義引退で幕府内紛は高師直が勝利したかにみえましたが、観応元年(1350)11月、直義は南朝と和睦して実兄・足利尊氏や師直を相手に戦うことになります。この間、高師泰は6月に足利直冬(尊氏の実子で、直義の養子)討伐のため、石見に出陣します。石見、長門、備後の守護に就任しますが、直冬討伐は難航。直冬方の石見・三隅城(島根県浜田市)を落とせず、観応2年(1351)に石見を撤退しています。
出家、護送中…武庫川の惨劇
高師泰は石見撤退後、書写山(兵庫県姫路市)で足利尊氏、高師直と合流。足利直義と戦いますが、観応2年(1351)2月17日からの摂津・打出浜の戦いで師直とともに負傷、大敗を喫しました。2月21日、尊氏と直義は和睦。師泰、師直は出家して助命という約束でしたが、2月26日、護送中に殺害されます。
護送の隊列に上杉、畠山の兵が割込み、尊氏と高兄弟の距離を徐々に隔てていきます。武庫川(兵庫県伊丹市)を過ぎたころは5・5キロほど離れ、養父の復讐の機会をうかがっていた上杉能憲の一派、三浦八郎左衛門の家来が
「そこの遁世者(出家姿の者)、顔を隠しているのは何者だ。笠を取れ!」
と、高師直の笠を斬って捨てました。
三浦八郎左衛門:「ああ敵だ。願っていたことよ」
と、三浦八郎左衛門が師直に斬りつけ、落馬した師直を斬首。55メートルほど後方で見ていた師泰は逃げようとしたところ、吉江小四郎に背後から槍で突かれ、吉江の家来に馬から引きずり降ろされて絶命。高一族の者も次々と討ち取られ、師泰の子息・師世もこのとき惨殺されました。
弟・師久は新田勢に捕縛され斬首
高師泰の妻は足利尊氏らの母・上杉清子の妹。師泰は尊氏、直義兄弟の義理の叔父でもあります。師泰の兄弟は系図によってかなり違いますが、清源寺の系図によると、師義、師綱という兄2人がいて、早世したようです。弟は重茂、師久がいます。
弟の一人・高重茂は兄たちとは違って足利直義派。観応の擾乱後も生き残り、鎌倉公方・足利基氏(尊氏の四男)に仕えます。
もう一人の弟・高師久は建武3年(1336)、後醍醐天皇方が籠もる比叡山を攻める戦いで負傷。敵に捕らえられ、処刑されます。『太平記』では、新田義貞に「仏敵神敵の最たる者」と面罵され、師直の弟で一軍の大将でありながら、身代わりになる若武者一人いなかったのは仏罰だと批評されています。
師泰の子には、嫡男・師世、次男・師武、三男・師次とする史料があります。娘・明阿は師泰の従兄弟・高師冬の妻。また、養子として従兄弟・師幸の子・高師秀がいます。師泰死後、跡を継いだのは師秀です。
おわりに
高師泰は、『太平記』には高師直以上に悪逆非道のエピソードを残していますが、ほとんどは裏付けのないものばかり。確かに貴族や社寺の所領での略奪、破壊行為はあり、戦功におごって増長したのかもしれません。観応の擾乱の悲惨な末路もイメージ悪化に拍車をかけたようです。実像は師直同様、足利尊氏配下の精鋭部隊を率いた勇猛な幹部武将で、室町幕府創成に多大な貢献があったことも確かです。
【主な参考文献】
- 兵藤裕己校注『太平記』(岩波書店、2014~2016年)岩波文庫
- 亀田俊和『高師直 室町新秩序の創造者』(吉川弘文館、2015年)
- 亀田俊和『観応の擾乱』(中央公論新社、2017年)
- 亀田俊和、杉山一弥編『南北朝武将列伝 北朝編』(戎光祥出版、2021年)
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