徳川家康の死因には大いなる秘密が隠されている可能性があった!?
- 2023/11/27
江戸幕府を開府し、天下太平の世を築いた徳川家康の死因は病死とするのが定説となっているようだ。ところが、史料を調べていくと正史とは異なる、断片的な記述に出会うことが結構あったのである。
今回は、このいわば状況証拠的な記述を積み上げることで、家康の死因を再考することを試みてみた。
今回は、このいわば状況証拠的な記述を積み上げることで、家康の死因を再考することを試みてみた。
鯛の天ぷらによる食中毒説
かつては、この説が家康の死因として根強く信じられてきたようだ。しかし、時系列を整理して見てみると、食中毒説の信憑性は低いことがわかる。ことの発端は、元和8(1616)年1月21日に家康が行った鷹狩であった。『徳川実記』によれば、家康は鷹狩の後、駿府近隣の田中城に滞在していたが、そこに茶屋四郎次郎清次がやってきたという。上方のことが話題に上ると、四郎次郎は鯛の天ぷら(素揚げ)が流行っていると答えた。家康はその料理を所望し、食した晩に腹痛を訴えたのである。
そのまま田中城で3日ほど静養して駿府へ戻ったのであるが、腹痛はおさまらず、病状は次第に悪化していったという。3月に入ると容体はさらに悪化し、下旬には曲直瀬道三の診察を受けている。4月半ば位からは食事を口にしなくなり、4月17日に逝去。
天ぷらの一件から、亡くなるまで3ヶ月程かかっているのである。もし、家康の死因が食中毒であるならば、遅くとも2~3週間で死を迎えたはずなので、食中毒説には無理があろう。
胃癌説
現在、家康の死因として最も有力なのが胃癌説である。『徳川実記』には最晩年の家康の病状が記されていて、そこには「見る間に痩せていき、吐血と黒い便、腹にできた大きなシコリは、手で触って確認できるくらいだった」とある。これが胃癌患者によく見られる症状であることから、胃癌説が唱えられるようになったという。
因みに、胃癌は遺伝的要因が大きい癌でもあるらしく、子の2代将軍秀忠や孫の徳川光圀も胃癌などの消化器系の癌による死が疑われている。
膵臓癌
実は、胃癌と膵臓癌の症状は似通っているのだという。しかも、飲酒や油っこい料理を食べた後に悪化して腹痛を起こしたりするそうであるから、家康の病状とも一致する。ただ、黄疸や背中の痛みなど、膵臓癌特有の症状が見られないと思われる点が、少々気になるところか。
暗殺説
暗殺説と、この後述べる討死説は、共に影武者の存在を前提とした所謂、異説である。暗殺説は、家康本人が桶狭間の戦いの後に家臣の阿部正豊に暗殺され、その後は世良田二郎三郎元信が家康になりすまして、天下まで取ってしまったという筋書きである。
家康影武者説については、以前源応尼の記事で触れたことがあった。その説の出所は村岡素一郎氏が著した『史疑徳川家康事蹟』である。
私は以前からこの説には興味があった。というのも、世良田二郎三郎元信の生い立ちが面白いのだ。
彼の生母はささら者(賤民)で、父は江田松本坊という祈禱僧であったという。生年月日は何と家康と同じ天文11(1542)年12月26日である。幼名は国松と名付けられた。
国松が生まれると父は出奔したらしく、結局駿府の東照山円光院に入り「浄慶」と名乗るも禁を破ったため破門となり、駿府を放浪していたところを攫われ、酒井常光坊という修験僧に売られたと記されている。
その後、成長した浄慶は永禄3(1560)年、世良田二郎三郎元信と名乗るようになったという。世良田氏を名乗ったのは、父・松本坊が新田氏の末裔と称していたためらしい。
ここまでの話に、史料による裏付けは一切ない。
ところで、私は二郎三郎という通称が非常に気になっていた。それは、家康の祖父・清康が世良田次郎三郎を名乗っていたからである。
以降、この通称は嫡流に受け継がれていく。実際、家康も初めは世良田次郎三郎と称していたとされている。いわば、安祥松平の通称を一字違いとはいえ、怪しい身上の者が名乗ることは問題ではないか。素一郎氏の説が正しいとして考えるとき、私が抱いた疑問である。
しかし、調べてみると次郎と二郎には命名法としての区別が存在することがわかった。どうやら当時の武家の慣習では、次郎は2番目の男子であり、二郎は12番目の男子を表していたようなのだ。
詳しく言うと、次郎三郎の由来は徳川の祖と言われる松平親氏が松平信重の養子となったところから始まる。親氏の系統が次郎を名乗るようになり、4代目親忠の頃に分家すると、親忠が三男であったことから『次郎三郎』と名乗ったということらしい。ということは、世良田二郎三郎は家康の系統とは異なっていることになる。
それにしても、なぜこのような微妙な通称を用いたのであろうか。ふと、家康は双子だったのではないかという考えが脳裏を掠めた。
当時、双子は不吉とされており、片方を養子に出したりしてその存在を隠したとされている。家康の双子の片割れも、おそらくはそうなる運命のはずだった。しかし、祖父清康が暗殺され、その動揺冷めやらぬ時期だっただけに、双子の弟を影武者とするべしと進言した家臣がいてもおかしくないだろう。おそらくは、どこかに匿われて養育されていたものと思われる。
私は酒井氏の関与があったものと推測している。実は、家康双子説をうかがわせる史料が残されている
『広忠寺由緒書』等複数の史料には、家康の父・広忠の側室於久の方が天文11(1542)年12月26日に男子を産んだとある。
家康と生年月日が同じというところに注目したい。
不思議なのは、於久の方が自らの化粧田である額田郡桑谷村に移って出産している点である。さらに、このとき於久の方は40歳前後であったと言われ、15歳であった広忠の側室となるのは不自然という説も存在する。この辺の不自然さも双子説を取れば説明がつくのではないか。
この男子は長じて桑谷村に建立された瑞雲山広忠寺(こうちゅうじ)の住職となり恵最(えさい)と称したという。双子説が本当ならば、恵最は家康の影武者として、どのタイミングで入れ替わってもよいように養育されただろう。ひょっとすると、訓練のため時々家康と入れ替わっていたのかもしれない。
こうなると、家康がたとえ暗殺されたとしても松平(徳川)の体勢は崩れないような気もする。しかし、私は少なくとも大坂冬の陣までは家康が存命だったのではないかと考えている。その方が、次の「討死説」とのつながりがよいからである。
討死説
大坂夏の陣で、家康本陣に真田信繁が突撃をかけ、その凄まじさに恐怖した家康が自害しようとしたのは史実だろう。正史では家臣に諌められ、徳川勢の奮戦もあり、ことなきを得たことになっている。ところが『南宗寺史』によれば、家臣に諌められた家康は戦線を離脱。駕籠に乗せられ逃亡を図るも、これを怪しんだ後藤基次が槍で駕籠を突き刺したという。
家康は重傷を負い堺まで運ばれたが、死亡したというのだ。
遺骸は南宗寺の開山堂下に隠され、後に改葬されたと記されている。現在の南宗寺は大坂夏の陣後に沢庵宗彭が再興したものであるが、当時はそこに開山堂とともに東照宮があったと伝えられる。
さらに開山堂の床下には無銘の無縫塔があったとも言われ、これが家康の墓だという伝説も存在する。
残念ながら、第二次世界大戦の空襲で開山堂と東照宮が焼失してしまったが、開山堂の焼け跡から、言い伝え通り無縫塔が発見された。この無縫塔は、現在も寺の一角に祀られている。何だか、伝説とは言いながら妙に真実味のある話ではないか。
家康討死説の状況証拠は、まだある。
例えば、日光東照宮には、家康使用の網代駕籠が保管されているという。大坂夏の陣で使用されたものと伝わるが、驚くことにその屋根に槍で突き刺した跡が残っているそうだ。
さらに、南宗寺にある「坐雲亭」には、2代将軍秀忠、3代将軍家光が相次いで南宗寺に参詣したことを記した板額があるのである。この二人の参詣の間の、元和9(1623)年7月27日に家光が伏見城にて将軍宣下を受けていることは興味深い。
これは、将軍の代替わりの報告ともとれ、状況証拠としてはかなり強力であろう。少なくとも家康本人かゆかりのあるものが埋葬された可能性を示唆している。
さて、暗殺説のところでも述べたが、家康が暗殺されなかったとした方が討死説とのつながりがよいようだ。仮に、家康本人は、とうに暗殺されていて影武者(恵最)と入れ替わっていたとすると、大坂夏の陣の時の家康は当然影武者である。
その影武者も討死したとなると、誰かを代役に立てねばならない。この際、家臣の小笠原秀政が影武者を務めたという説もあるが、秀政は家康よりかなり若く影武者は無理だろうという説もある。となると、大坂夏の陣勃発の時点で、家康本人と影武者の双方が存命である方が無理がない。
では、南宗寺に埋葬されたのはどちらだろうか。
これは大坂冬の陣の状況と家康の性格を考え合わせると、なんとなく見えてくるように思われる。
この戦いで、豊臣方は早々と大坂城での籠城戦に持ち込んだ。大坂城を囲んだ徳川方の軍勢は約20万。徳川優勢かに見えたが、真田丸の戦いにて徳川方が撃退される。
真田丸で戦いを指揮したのが、真田信繁であった。真田信繫は、家康を散々手こずらした真田昌幸の息子である。慎重な家康のことだから、何を仕掛けてくるかわからない信繁と対峙するのは危険であると考えるのが妥当ではないだろうか。
そうなると、影武者が大坂夏の陣を指揮した可能性は結構高いだろう。この流れからいくと、家康本人は正史通り天寿を全うしたことになる。
あとがき
当初、異説である暗殺説と討死説はもっとあっさり書く予定であった。ところが史料を調べていくと、流石にはっきりとした記述はないものの、状況証拠的な事実が複数存在していることを知り執筆にのめり込んでしまったようだ。そして新たな疑問が生じたのである。村岡素一郎氏が『史疑徳川家康事蹟』を執筆する際には、かなりの史料を読み込んだと思われるが、その過程で家康双子説が頭を掠めることはなかったのだろうか。
どちらにしろ異説の域を出ないのであるが、家康双子説には何かあると勝手に思ってしまう私にとっては、実に大いなる疑問なのである。
【主な参考文献】
- 榛葉英治『史疑徳川家康』(雄山閣出版、2008年)
- 若林利光氏『戦国武将の病が歴史を動かした』(PHP研究所、2017年)
- 篠田達明氏『戦国武将のカルテ』(KADOKAWA、2017年)
- 河合敦『禁断の江戸史~教科書に載らない江戸の事件簿』(扶桑社、2020年)
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄