「一帝二后」 娘を中宮に押し込んだ藤原道長の強引手法
- 2024/06/25
平安時代中期、藤原道長が権力基盤を固めるうえで重要だったのが長女・彰子を一条天皇と結婚させ、天皇の正室(正妻)である中宮にしたことでした。そのとき、一条天皇には既に中宮がいましたが、道長は政略を駆使して彰子を中宮に押し込みます。そのウルトラCが天皇に2人の正室を置く「一帝二后」。前例のない強引手法でした。道長の策略を追います。
一条天皇の中宮・定子は藤原道隆の長女
天皇の妻は「キサキ」といい、本来、正室は「后」、側室は「妃」の字を当てます。古い時代は「皇后・妃(ひ)・夫人(ぶにん)・嬪(ひん)」と呼びますが、平安時代中期以降、「皇后(中宮)、女御、更衣、御息所(みやすんどころ)、尚侍(ないしのかみ)」などの呼び方になります。皇后は正室。「中宮」は本来、「皇后の住居」の意味ですが、皇后その人を指すようになります。つまり、「皇后=中宮」です。
女御以下は側室。更衣は着替え係のような意味ですが、寝室に入る役目から天皇の寵愛を受ける女性を指すようになり、御息所も休憩所の意味から側室を指す言葉に。尚侍は天皇の女性秘書の長官ですが、次第に側室の実態が強くなります。皇后は女御の中から選ばれます。
「三后」の地位に空席なく
正暦元年(990)1月、藤原道隆の長女・定子が一条天皇に入内(じゅだい)します。天皇の妻として内裏に入るので「入内」です。一条天皇11歳、定子14歳でした。関白は定子の祖父・藤原兼家でしたが、5月に辞任し、7月に死去。兼家長男・道隆が関白に就き、すぐに摂政となります。
権力を握った父・道隆により、定子は10月に皇后となります。「立后」です。実は、これがすんなりとはいきませんでした。このとき、皇后の称号を持つ女性が別にいたのです。定子は一条天皇の1人目の妻。ほかに皇后がいるわけがないはずですが……。
しかし、このとき「三后」に3人の女性がいました。
- 太皇太后…昌子内親王(3代前の冷泉天皇の皇后)
- 皇太后…藤原詮子(先々代・円融天皇の女御で、一条天皇の生母)
- 皇后…藤原遵子(円融天皇の皇后)
本来、太皇太后は天皇の祖母、皇太后は天皇の母ですが、次第に政治の力関係で三后の地位が決まるようになります。退位した天皇の正室が皇后の地位を保ち、后位に空席がなかったのです。
道隆の妙案?定子を「中宮」に
藤原道隆は定子を「中宮」として立后します。同じ意味の「皇后」と「中宮」を呼び分けたのです。皇后が別にいるから「中宮」の呼称を使いましたが、三后の地位に「四后並立」という異常事態。藤原実資は日記『小右記』で「后位に4人という例は聞いたことがない」と批判。藤原道長(兼家五男)は道隆の弟ですが、父の喪中を理由に定子立后の儀式を欠席します。『栄花物語』は、道長の態度を「気丈」と賞賛。実権を握る道隆に媚びず、距離を置きました。
栄華極める中関白家
藤原道隆の家系は「中関白家」といわれます。それぞれ一時代を築いた道隆の父・兼家と道隆の弟・道長の中間という意味です。道隆は兼家の地位を継いで藤原氏のトップ「藤氏長者」に。道隆の三男・伊周(これちか)、四男・隆家が定子の同母兄弟ですが、彼らを中心に道隆の子もどんどん出世します。
一条天皇も定子に深い愛情を注ぎ、夫婦関係は良好。また、正暦4年(993)頃から定子の女房として清少納言が仕えています。定子のサロンは文化的にも華やかになります。
藤原道長の長女・彰子の入内
栄華を極めた中関白家ですが、藤原道隆は長徳元年(999)4月、43歳で亡くなります。道隆は生前から三男・伊周を関白にしようと画策しますが、関白に就いたのは道隆の弟・藤原道兼(兼家三男)でした。道兼は4月27日、関白に指名されながら、5月8日に35歳で死去。「七日関白」の異名だけが残りました。定子の実家・中関白家の没落
藤原道兼死後、権力をつかんだのは弟・藤原道長です。前後して左大臣・源重信、大納言・藤原朝光が病死。名誉職の傾向がある太政大臣はもともと欠員で、右大臣は道兼が兼任していたので、次の政権担当者は内大臣・藤原伊周22歳と権大納言・道長30歳に絞られます。
一条天皇は定子の兄・伊周を関白にしたかったのですが、結局、道長が内覧に。内覧は重要文書を天皇に渡す前に見る役職で、関白同等の権限があります。
その後も道長と伊周は険悪な状態が続きますが、長徳2年(996)の長徳の変で伊周は失脚します。そのころ、妊娠した定子は内裏から二条北宮へ移ります。公卿のお供もなく、さみしい実家への帰還でした。
また、兄弟の伊周、隆家失脚のショックを受け、自ら髪を切って出家。6月8日には二条北宮が焼失。妊娠中の定子は車に乗らず、侍に抱えられて難を逃れるありさまでした。藤原実資は、不幸が続く中関白家について、次のように書いています。
「禍福は糾える縄の如し」
定子は12月に皇女を出産。長徳3年(997)、再び宮中に迎え入れられます。出家した中宮の「出戻り入内」に周囲の反対もありましたが、定子への愛情が深い一条天皇が押し通しました。
彰子入内と同時に定子が皇子出産
藤原道隆死後、ほかの貴族が次々と娘を一条天皇に入内させます。藤原道長の長女・彰子は長保元年(999)11月、入内。彰子12歳、一条天皇20歳と年齢は離れています。
一方、同じタイミングで定子が一条天皇の第1皇子・敦康親王を出産。3年前の第1皇女に続き、この時点で一条天皇の子は定子の産んだ2人だけ。彰子を含め4人の女御は出産には至っていません。
道長の狙いは彰子に一条天皇の皇子を産ませることですが、年齢的にそれはまだまだ先の話。まずは彰子を天皇正室にしたいと考えます。
前例のない1人の天皇に2人の中宮
長保2年(1000)2月、藤原彰子が立后、一条天皇の正室に迎えられます。彰子を中宮とし、中宮だった定子を皇后として呼び分け、1人の天皇に2人の皇后という前例のない事態を招きます。これが「一帝二后」です。
このとき、彰子の父・藤原道長は摂政関白ではありませんが、政界トップ・左大臣の地位にあり、実権のある内覧でもありました。
行成の奔走に感謝する道長
もともと、本来は同じ意味の「皇后」と「中宮」を呼び分けたのは定子を一条天皇に入内させた藤原道隆。藤原道長はかつて道隆の手法に批判的でしたが、娘を中宮とするため、さらに強引な手法を駆使したのです。彰子の立后に奔走したのは藤原行成。道長シンパの貴族で、一条天皇、天皇の母・藤原詮子、道長の三者の間を走り回って意見調整に尽力しました。行成の日記『権記』には道長の感謝の言葉が残されています。
道長:「今回、汝(行成)の厚い恩を知った。実現したのは汝のおかげであり、必ずこの恩に報いたい。お互いの子には兄弟と思うように言い伝えよう」
道長の裏技に関与した安倍晴明
彰子の立后の時期を決めたのは安倍晴明です。長保2年(1000)正月、藤原道長は安倍晴明を呼び、立后の時期について勘申させます。勘申とは、先例や故実、吉凶を調べて行事の最適な日時を上申することです。
こうして彰子立后は2月25日に決定します。皇太后・詮子は女院となっていたので、皇后・遵子を皇太后、中宮・定子を皇后、女御・彰子を中宮にする宣命(天皇の命令書)が発せられます。
藤原行成は、前例のない「一帝二后」の理屈もひねり出しています。
行成:「藤原氏出身の后はいずれも出家していて、氏神を祀ることができない」
既に三后から離れている詮子は正暦2年(991)、遵子は長徳3年(997)、定子は長徳2年(996)にそれぞれ出家しています。現代から見ると、藤原行成の主張は道長に媚びた政治的言動ですが、仏教に帰依する者は神事を司ることはできないという理論は、当時としては飛躍したものではありません。
定子死去 「一帝二后」解消
「一帝二后」は結局、1年足らずで解消されます。定子は長保2年(1000)12月、第2皇女を出産後、25歳で死去。定子の死後は道長の思惑通りに進みました。
寛弘2年(1005)12月ごろ、彰子の女房として紫式部が仕え始め、彰子のサロンが充実。一条天皇との関係も良好となり、寛弘5年(1008)に敦成親王(後一条天皇)、寛弘6年(1009)に敦良親王(後朱雀天皇)と、一条天皇の第2、第3皇子を出産しました。道長待望の外孫が誕生したのです。
おわりに
紫式部が仕えた中宮・藤原彰子、清少納言が仕えた皇后・藤原定子。一条天皇の2人の正室は対照的でしたが、定子の死後、残された敦康親王を養育したのは彰子でした。また、一条天皇の本心を知り、彰子は敦康親王即位を望みます。父・藤原道長は彰子が産んだ敦成親王(後一条天皇)の即位が究極の目標だったので、かないませんでしたが、従姉妹(いとこ)同士でもある定子と彰子は、2人の父親(道隆、道長兄弟)ほどライバル意識でギスギスした関係ではなかったのです。なお、異常事態の「一帝二后」も前例ができると、後に続く例は出てきます。三条天皇には皇后・藤原娍子(藤原済時の娘、皇太子時代からの妃)と中宮・藤原妍子(道長次女)がおり、後朱雀天皇にも皇后・禎子内親王、中宮・藤原嫄子がいました。
【主な参考文献】
- 保坂弘司『大鏡 全現代語訳』(講談社、1981年)講談社学術文庫
- 服藤早苗『藤原彰子』(吉川弘文館、2019年)
- 山中裕『藤原道長』(吉川弘文館、2008年)
- 倉本一宏『藤原伊周・隆家』(ミネルヴァ書房、2017年)
- 倉本一宏編『現代語訳小右記』(吉川弘文館、2015~2023年)
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