「どうする家康」『三河物語』は大坂の陣、豊臣家の滅亡をどのように描いたか
- 2023/12/11
大河ドラマ「どうする家康」第47話は「乱世の亡霊」。徳川方と豊臣方との新たなる戦い「大坂夏の陣」が描かれました。
大坂夏の陣に先立ち、慶長19年(1614)11月には「大坂冬の陣」が勃発しますが、『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)によると、「冬の陣」開戦までの経緯は次のように記されています。
先ず、徳川家康は、大坂城の豊臣秀頼が諸国の浪人を召し抱え、10万余りの兵力を蓄えていると耳にします。そして、それが事実ならば「秀頼のお袋(淀殿)を江戸に下向させよ」と使者をもって、秀頼に伝達。ところが、大坂方は「とんでもないことだ」とその要求を拒否。家康はそれを受けて、そのような返答ならば「大坂を退去されよ」と詰め寄りますが、それもまた大坂方の受け入れるところとならず。それどころか、益々、浪人を召し抱え、武具の準備までしているとのこと。家康は大坂方への疑念を深めます。
一方、大坂では、秀頼の傅役・片桐且元が「家康の要求に従い、淀殿を江戸に遣る」ことを提案。だが、それに反発する大野治長・治房などがおり、とうとう且元は大坂城を退去することになります。そして、とうとう、大坂方の謀叛は疑いなしということで、家康は軍勢を招集し、大坂城へ押し寄せるのです。
大坂方も奮戦しますが、徳川方は城を四方から囲み、高山を築き、大砲を据え、水の手を断つ作戦に出たので、ついには大坂方から和議の提案がありました。家康は「城の外郭を取り壊す」ことを条件にして、和議を受け入れます。
同書によると、徳川方は、外郭だけでなく、二の丸の塀や、櫓、石垣を壊して、堀を埋めてしまったそうです。秀頼らは「約束違反」を怒ったようですが、家康は豊臣方が再度、叛逆しても楽勝できる状況を作り上げたのです。
翌年(1615年)、秀頼がまたもや反乱を企てているとの報があったので、家康は出陣。同年5月、大坂夏の陣が起こります。各地で激戦となりますが、豊臣方が劣勢となり、ついには大坂城が炎上。秀頼と淀殿は自害して果て、夏の陣は終結しました。
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