信長がキリスト教に好意的、厚遇していたというのは本当か

信長の人物像を見る際に、よく引用されるのがポルトガル人宣教師のルイス・フロイスによる記述(著書『日本史』など)です。フロイスは信長と親交があり、自身で見聞きしたこと、あるいは宣教師から聞いたことを著書にまとめており、それが信長像を知るための貴重な史料であるために、よく取り上げられるのです。

また、信長は「短気」「冷酷」「残虐」などの言葉で語られることが多い一方で、フロイスの語る信長像は合理的で正義に厳格であり、時には人情味や慈愛をもって人と接していたというような一面が見られ、信長イコール冷酷非道というイメージを抱く人にとってはこの意外性が印象に残りやすいのかもしれません。

信長は石山本願寺との戦いを10年以上も続ける一方で、イエズス会の宣教師らの布教活動を認め、親しくしていた。このように言ってしまうと、確かに信長が仏教を嫌って弾圧し、反対にキリスト教を厚遇したかのように見えてしまうかもしれませんが、果たしてそれほど単純なものだったのでしょうか。

信長は本当にキリスト教に好意的だったのか、確認していきましょう。

「信長=キリスト教に好意的」とみられる理由

そもそも、なぜ信長はイエズス会を好意的に捉えて厚遇したと考えられているのでしょうか。実は、信長とイエズス会との関係については、信長側に豊富な史料はありません。そのほとんどがイエズス会宣教師らの記録によるものなのです。

ルイスフロイス像
長崎県西海市の横瀬浦公園にあるルイスフロイス像(出所:ながさき旅ネット

信長は革新的で無神論者だった?

信長の一代記として知られる一級史料『信長公記』には、イエズス会を格別に贔屓したような記述はありません。イエズス会に対して安土に屋敷を与え、イエズス会からは献上品として黒人奴隷を贈られた(信長に気に入られ「弥助」の名で家臣となっている)などの記録はあり、信長とイエズス会は良好な関係を築いていたことはわかります。

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ただ、これだけでは信長がキリスト教だけを優遇したとはいえません。

一方、宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』によれば、信長が在来宗教である神道や仏教のいっさいを軽蔑していたとされます。

「宇宙の創造主も霊魂の不滅も来世の賞罰もない」とする信長の考え方が、神仏のすべてを否定する立場によるものとは言い切れません。フロイスは同時に、信長が若干禅宗の考えに同意していた、としており、先の信長の考え方は禅宗の考え方に立脚したものとしても捉えられるからです。

キリスト教に理解を示してイエズス会の布教を認め、また地球儀を見せられて地球が丸いことを「理にかなっている」とすぐに理解したことなどから、信長が革新的な人物であったとみなされていますが、実際のところ、信長が「理解を示したこと」と「キリスト教を優遇したこと」は別問題です。

石山本願寺との戦い、比叡山焼討ちから

信長は長期にわたった石山本願寺との戦いや、元亀2年(1571)の比叡山焼き討ち等で、長く寺社勢力を弾圧していました。そんな中でキリスト教に好意を示して布教を認めたために、「仏教とは敵対する立場にあるがキリスト教は認めた=優遇した」と捉えられたのかもしれません。

信長、比叡山を焼く(『絵本太閤記 二編巻六』より)
信長、比叡山を焼く(『絵本太閤記 二編巻六』より)

仏教とキリスト教を単純な二項対立で考えることはできませんが、イエズス会からしてみれば、自分たちがもともと異教徒(仏教や神道)に否定的な立場であったために、キリスト教を理解し認めた信長は(自分たちと同じように)神仏と敵対する立場であるかのように判断した、と考えられます。

本当にイエズス会に好意的だったのか?

では、宣教師から信長側へ視点を変えてみましょう。信長のイエズス会への対処は、「好意的」で「優遇」していたといえるものだったのでしょうか。

史料は多くはありませんが、『信長公記』に記された出来事のなかに興味深いものがあります。

高山右近を従属させるために利用

天正6年(1578)10月21日、信長の家臣であった荒木村重が謀叛を企てているという知らせが入ります。村重は毛利に寝返り、信長と敵対している石山本願寺側についたのです。

このとき、信長は村重の家臣であった高山右近がキリシタンであったことから、イエズス会を利用することを思いつきます。

高槻城跡(大阪府高槻市)にある高山右近の像
高槻城跡(大阪府高槻市)にある高山右近の像

「然して高槻の城主高山右近だいうす門徒に候。信長公御案を廻らされ、伴天連を召寄せられ、此時、高山御忠節使候様に才覚致すべし。さ候はゞ、伴天連門家何方に建立候共苦しからず。もし御請申さず候はゞ宗門を御断絶なさるべきの趣仰出ださる」
(『信長公記』巻十一より)

信長は宣教師を呼び出し、「高山右近がこちら側の味方になるよう取り計らってほしい」といい、もし実現すればキリスト教の教会をどこに建ててもいいが、この頼みに応じなければキリシタン宗を断絶させる、と述べています。

このあとの記述によれば、信長に命じられた宣教師・オルガンティノが高山右近を説得し、高槻城を明け渡して出家したので信長は満足したようです。

この取引内容は、宣教師側の記録にも残っています。フランシスコ・カリヤンの報告書です。これによると、信長はオルガンティノを呼び出して高山右近の説得にあたるよう命じたことは『信長公記』の内容と同じですが、さらに詳しく、信長が高山右近を脅した内容についても触れられています。それは、「信長の味方をしなければ司祭を殺し、五機内のキリスト教団を破壊するだろう」というものでした。

またそれだけでなく、信長は都のイエズス会員や関係者らを人質にとり、近江国へ連行したのです。つまり、信長は利害が一致すればキリスト教を保護し支援もするが、従わなければ教団を破壊する、と宣教師たちを「脅した」一面があったのです。

信長はキリスト教に理解を示して布教を認めた一方で、自分の利益のためとあれば利用できるものは脅してでも利用するという姿勢であったことがわかります。

戦国時代の大名の中にはみずから改宗してキリシタンになった者もいますが、全てが純粋な信仰心による改宗ではなく見返りの南蛮貿易を目的としたものがあったように、信長がイエズス会を保護したのも利害関係によるものが大きかったと考えられます。

というわけで、信長と宣教師たちとの友好関係だけを見て、イエズス会に好意をもって厚遇していたとみなすことは難しいように思われます。

信長が神仏を嫌っていたという説は?

そもそも、よく信長がキリスト教を保護した前提条件として語られる「寺社勢力を嫌って弾圧した」という背景ですが、これも正しいとはいえません。

確かに信長は神仏を熱心に信じる敬虔な仏教徒ではなかったかもしれませんが、自ら率先して特定の宗派を攻撃するようなことはありませんでした。石山合戦においても、信長と対立する勢力に本願寺派が属していただけであって、戦い自体は弾圧が目的だったわけではありません。

むしろ信長が仏教寺院に寄付をしたり保護したりした例は少なくなく、神仏を否定し嫌っていたわけではないことは明白です。信長にとっては自分に害を及ぼさない限りどんな宗派も攻撃対象ではなく等しく平等に見ており、キリスト教についても同様にみなしていただけなのかもしれません。

『信長公記』に特別イエズス会に対して目立った記述がないことを見ても、信長が多数の仏教の宗派と比べてキリスト教を厚遇してはおらず、あらゆる宗教に優劣をつけてはいなかったことがわかるでしょう。


【参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 太田牛一(著)、奥野高広・岩沢愿彦(校注)『信長公記』(角川書店、1969年)
    ※本文中の引用はこれに拠る。
  • 神田千里『戦争と宗教』(岩波書店、2016年)
  • 神田千里『織田信長』(筑摩書房、2014年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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