平安京 お手本は唐の都長安、東西十三の大路と南北十一の大路に囲まれた都
- 2024/07/08
桓武天皇が気合を入れ、四神相応(しじんそうおう)の地として選んだ平安京、その街は実際どんな様子だったのでしょう。
お手本は長安の都
平安京は平城京や藤原京と同じように、唐の都である長安や洛陽を手本に、碁盤の目に区画整理された“条坊制”を採用します。ただし日本の場合、大陸と違って異民族の侵入に備えなくとも良いので、都の周囲に“羅城(らじょう)”城壁は設けませんでした。また都の中に天皇家を守る近衛師団などの軍事施設も作られませんでした。
国の脅威となるような外敵は想定されなかったのでしょう。天皇の住まいであり、まつりごとを行う大内裏を、都の東西の真ん中で北の端に置く配置も平安京独特のものです。
都の規模としては長安のおよそ3分の1で、東西1508丈(約4.5キロ)南北1753丈(約5.2キロ)、中央を南北に貫く幅28条(約83.5メートル)の朱雀大路により、東西に分けられます。
朱雀大路の南の端は羅城門に突き当たり、大路の東を左京、西を右京と呼びました。左京は“東京(とうきょう)”あるいは“洛陽”、右京は“西京(さいきょう)”あるいは“長安城”と言うような中国風の呼び名も付けられています。
四神相応の都
「四神相応」は古代中国から伝わった風水の一種であり、地相からみて天の四神に応じた最良の土地柄のことです。平安京は四神相応の地として造られたとされています。四神 | 方位 | 地勢 | 季節と色 |
---|---|---|---|
青龍 | 東 | 川 / 流水 | 春 / 青 |
白虎 | 西 | 道 / 大道 | 秋 / 白 |
朱雀 | 南 | 沢 / 湖沼 | 夏 / 朱 |
玄武 | 北 | 山 / 丘陵 | 冬 / 玄 |
【青龍】賀茂川
平安京への遷都の詔には「襟のように山があり、帯のように川が流れる山河襟帯」とあるのですが、平城京は水不足に悩まされた都でした。それを避けようと水の便が良い長岡京が次の都に選ばれたのですが、平安京も東に賀茂川が流れ、水上交通には便利な土地でした。四神相応の東の流れにも合致します。しかしこの“東河(とうが)”とも呼ばれた賀茂川が問題で、普段は水量も少なく穏やかな流れですが、一旦大雨が降るとたちまち暴れ川に変貌、洪水を起こして辺り一面を飲み込んでしまいます。新都造営に合わせて賀茂川を東へ移して灌漑工事も行いましたが、その後もたびたび氾濫し甚大な被害をもたらし、白河天皇をして「天下の三不如意の一、加茂の流れ」と嘆かせたのは有名な話です。
現代ではさすがに氾濫はしませんが、それでも梅雨末期や台風の大雨の後は茶色い水が逆巻いて流れ下り、三条や四条の橋の上から見ると恐ろしいほどです。また下流の五条・六条南は死体遺棄の場所とされ、9世紀半ばには5000個を超える髑髏が集められたとか。
【朱雀】巨椋池
南の水辺に当たるのが、かつて存在した巨椋池(おぐらいけ)です。宇治川・木津川・桂川に挟まれた湧水地帯で、湖と呼んでも良いぐらいの東西4キロメートル・南北3キロメートルの広大な池でした。ハスの群生地として有名で “蓮見船” も仕立てられましたが、水深が浅く、現代では干拓地として田畑が広がっており、かつての面影は見られません。しかし平安の昔は平安京と平城京の中間の立地もあり、与等津(よどのつ)や岡屋津(おかやのつ)を結ぶ水上交通の中継地としての役目を果たします。
【白虎】は山陰道、西端は双ヶ丘か西山
さて、四神相応の西ですが、これは山陰道の大道を指します。ただし都の西の端は双ヶ丘(ならびがおか)や西山の丘陵地とされます。双ヶ丘だとすればこの丘陵は一番北の端に標高116メートルの一ノ丘が、その南側に二ノ丘102メートル三ノ丘78メートルと続きます。ここには6世紀後半から古墳が築かれ、天皇の狩猟地となり、中世には兼好法師が庵を結んだ場所としても知られます。また『続日本後記』には三ノ丘の麓に「大池あり、水鳥群れを成す」と記されているようにかなり大きな池があったようです。
【玄武】は北山、北端は船岡山
北を守護する山地には北山が当てられます。ただしこちらも都の北端は船岡山が当てられます。船岡山は標高112メートル、現在は周りを京都市街地に取り囲まれ、ぽつんと取り残されたような小山です。平安時代にはこの山は『枕草子』にも「岡は船岡、片岡、鞆岡」と挙げられるほど美しい景観でした。しかし中世には葬送の地となり、『徒然草』になると「鳥部野、船岡、さらぬ野山にも(死体を)送る数多かる日はあれど送らぬ日はなし」と書かれます。
平安京の市街地
条坊制で碁盤の目に区切られた平安京の範囲は、北の端は大内裏の裏側北端の一条大路から南端は羅城門のある九条大路まで、北から近衛大路・大炊御門(おおいのみかど)大路・・・と13の大路が通り、東は東京極大路から東洞院(ひがしのとういん)大路・西洞院大路と来て西は西京極大路まで11の大路が貫通しています。 これらの大路の幅は30から36メートルぐらいで、大路で区切られた中を幅12メートルの小路が貫き、40丈(120メートル)四方の区画“町”を形成していました。
この“町”をさらに東西に四等分、南北に八等分した“四行八門(しこうはちもん)制”、つまり32に分けたものを“一戸主(いちへぬし)”と言い、土地区分の最小単位とされます。“一戸主”とは南北五丈(15メートル)東西十丈(30メートル)の、いわゆる鰻の寝床型の細長い土地です。“一戸主”を最小単位として身分に応じて宅地の広さが決められ、三位以上は1町、四・五位の殿上人は2分の1町、地下は4分の1町とされます。
身分によって決まる住まい
平安京には12万人から13万人が暮らしていました。内訳は天皇や皇族と五位以上の貴族、及びその家族が1600人、殿上人の従者が6900人、地下(じげ)人とその家族が3700人、無位の官人が1万5千人、一般庶民が10万人ぐらいです。殿上人とは清涼殿に昇殿を許された者で、三位以上の公卿と四・五位以上の一部と六位蔵人です。地下人とは清涼殿に昇殿を許されない官人で一般には六位以下です。参考までに身分(位階)を精査、分類すると、おおむね以下のような感じでしょうか。
- 上流貴族(公卿):正一位、従一位、正二位、従二位、正三位、従三位
- 中流貴族(一部は殿上人):正四位上、正四位下、従四位上、従四位下、正五位上、正五位下、従五位上、従五位下
- 下流貴族(地下官人):正六位上、正六位下、従六位上、従六位下
- 貴族ではない:正七位上、正七位下、従七位上、従七位下、正八位上、正八位下、従八位上、従八位下、大初位上、大初位下、少初位上、少初位下
五位以上の貴族の住まいはだいたい二条大路から五条大路までの間に建てられ、庶民の住まいは四条大路より南に建てられました。
『源氏物語』にも、五条あたりの夕顔の家に泊まった源氏が朝に目を覚まし、付近の家の唐臼の音や砧を打つ音、そして「ひどく寒いなぁ」「今年は振り売りの商いもさっぱりだよ、本当に心細い」等といった、生活感満載の会話に驚く様子が描かれています。
おわりに
“一戸主”は土地区分の最小単位でありますが、これは貴族階級に限って言えることで、貧しい庶民の掘立小屋などはとてもこの限りではありません。【主な参考文献】
- 大石学『一冊でわかる平安時代』河出書房新社/2023年
- 鳥居本幸代『千年の都平安京のくらし』春秋社/2014年
- 西山良平/編著『平安京と貴族の住まい』京都大学学術出版会/2012年
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