中臣鎌足の「大化の改新」までの歩みとは?
- 2024/05/31
大化の改新
「大化の改新」は、日本古代史上の重要な転換点とされます。それ以前の大和朝廷は豪族の連合政権的な面を持っていましたが、大化元年(645)に飛鳥板蓋宮で中大兄皇子や中臣鎌足らが皇極天皇の御前で蘇我入鹿を切り殺した乙巳の変以降、国の政治体制が変わってきます。大化の改新を契機として中国風の「律令」に基づく官僚組織が整備され、官僚たちが政治の実務を担うようになりました。唐王朝を見習って中央の官僚制度と共に、地方の行政組織も整備され、中央集権制度が整います。
この過程で急速に名前を知られるようになったのが中臣鎌足です。彼は大化の改新を断行した中大兄皇子が最も信頼した家臣で、名前自体は『日本書紀』のあちこちに出てきます。そんな鎌足の氏族「中臣氏」とは何者なのでしょうか?
宮廷の祭祀を事とする中臣氏
中臣氏は天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祖神とし、天照大御神が岩屋に籠ったときにはこの神様が岩屋の前で祝詞を唱え、外に連れ出そうとします。また、天孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)が高千穂峰へ天下った時には、五部神の筆頭として八咫鏡を奉じて供奉しました。 中臣氏の名前が歴史に出てくるのは6世紀初めで、朝廷の官制整備を押し進めた継体天皇が祭祀を司る祭官の責任者としたのが中臣氏です。その補佐に当たるのが忌部(いんべ)氏、神楽を舞うのが猿女(さるめ)氏、銅鏡を作る鏡作(かがみつくり)氏、勾玉製造の玉作(たまつくり)氏などを率いて職務に当たりました。
中臣と言うのは「神と人との仲立ちをする役割を持った大臣の家来」の意味だそうです。鎌足の曽祖父の中臣常盤(ときわ)が継体天皇から祭官の長に任命されたときに与えられた姓ではないかと言われ、元の姓は卜部氏でした。
中臣氏は6世紀から7世紀にかけて、地方豪族が思い思いに行っていた祭祀にもあれこれ口を出すようになり、しだいに勢力を強めて行きます。この過程で常陸国の鹿島神宮や下総国の香取神宮と絆を持ち、その社の祭神を自分たち一族の氏神に加えます。
まつりごとで世に出たい鎌足
推古22年(614)、鎌足はそんな中臣家に、当主・中臣弥気(みけ)の子として産まれます。母親は大伴氏の娘で智仙娘(ちせのいらつめ)と記録されています。
中臣常盤
┃
常盤
┃
智仙娘 ━┳━ 弥気
鎌足
当主となり、家の業を継ぐよう求められた鎌足ですが、神事に関わるのを嫌い、自宅を出て別邸に移り、中国の学問にいそしみます。特に周の軍師太公望が記した兵法書『六韜』を好み、自家の務める祭祀ではなく、政治・軍事で世の中に出たいと思っていました。
鎌足は遣隋使として中国にもわたった学問僧の元で「周易(しゅうえき。中国・周王朝の時代に完成した儒教の経典、占術の一種。)」を学んでいましたが、この僧が面白い事を言います。
鎌足の人柄を言っているのでしょうか?
荒事も厭わぬ鎌足
この時代、大陸では隋を滅ぼした唐が急速に勢力を伸ばしています。圧迫を受けた朝鮮半島の高句麗は、玉突きのように半島南部の百済や新羅に圧力をかけます。今度は新羅が勢力を盛り返し、日本を含む周辺諸国を圧迫。大和朝廷は異国の侵攻に対抗できる強力な軍隊の育成をせかされます。このような状況下、舒明天皇が亡くなり、女帝の皇極天皇が立つと、中国事情に詳しい蘇我氏の朝廷内での専横が目立ってきます。蘇我蝦夷は臣下の最高位「大臣(おおおみ)」の地位にあり、国政を担当。天皇家を超える力を蓄え、皇極2年(643)には蝦夷の息子である入鹿が、聖徳太子の子・山背大兄王を襲撃させる事件が起きます。
これを知った鎌足は
まず鎌足は、軽皇子(のちの孝徳天皇)に近づきます。しかし軽皇子は名誉欲ばかり強く、国を治める資質を信頼できませんでした。そこで次に王家の嫡流である中大兄皇子に接近して、信頼を得るのです。
さらに鎌足は、入鹿に取って代わろうとの野心を持つ蘇我一族の石川麻呂の引き込みに成功。そして暗殺の実行役として佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいのあみた)を用意し、準備は整います。
乙巳の変
大化元年(645)6月12日、飛鳥板蓋宮の皇極天皇の御前で入鹿に襲い掛かった鎌足たち。用意していた暗殺者2人は怖気づいてあまり役に立たなかったようで、鎌足と中大兄皇子が先に立って入鹿に太刀を浴びせ、惨殺します。 報せを聞いた父親の蝦夷は戦の準備をしようとしますが、蘇我氏に反感を持っていた朝廷の主だった者が中大兄皇子の側に付いたため、「これまで」と思い、自害して果てました。
乙巳の変の時、蝦夷や入鹿の動静を確認したり、暗殺実行役を手配したりの実際の手はずは鎌足が整えました。鎌足は進んで汚れ役も買って出たようです。
おわりに
この後、中大兄皇子が主導して政治改革が始まりますが、皇極天皇の次に帝位に就いたのは孝徳天皇でした。この方は以前鎌足が接近したものの、その資質に首を捻った軽皇子のことですが、ここで中大兄皇子が帝位についてしまっては入鹿を除いたのは帝位簒奪が目的だったのかと言われかねません。つまり、帝位にワンクッション置くってことですね。職制もそれまでの大臣(おおおみ)に代わり、左大臣と右大臣が置かれ、蘇我氏に次ぐ家柄の安倍内麻呂が左大臣、蘇我石川麻呂が右大臣、最大の功労者である鎌足は大錦冠の内臣(うちつおみ)となります。
この鎌足が藤原氏の祖となり、藤原氏の大繁栄の元となるのです。
【主な参考文献】
- 武光誠『日本史の影の主役藤原氏の正体』PHP研究所/2013年
- 渡邊大門/監修『平安時代と藤原氏一族の謎99』イースト・プレス/2023年
- 京谷一樹『藤原氏の1300年』朝日新聞出版/2023年
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄