国宝「埴輪 挂甲の武人」の真実
- 2024/09/04
NHKで昔放送されていた「お〜い!はに丸」や映画「大魔神」のモデルとなったのが、東京国立博物館に収蔵されている国宝の「埴輪 挂甲の武人」(けいこうのぶじん。以降、「挂甲武人」と表記)です。
同じ東京国立博物館にいる「踊る埴輪」と並び、埴輪界を代表する2大スターとして非常に有名ですね。(「踊る埴輪」についても寄稿しておりますので、よろしければご覧ください)
国宝埴輪は現在3例ですが、「挂甲武人」が他の国宝埴輪と異なる特徴を持っていることは意外と知られていないようです。そこで、知っているようで知らない「挂甲武人」の真実について、今回は紹介します。
同じ東京国立博物館にいる「踊る埴輪」と並び、埴輪界を代表する2大スターとして非常に有名ですね。(「踊る埴輪」についても寄稿しておりますので、よろしければご覧ください)
国宝埴輪は現在3例ですが、「挂甲武人」が他の国宝埴輪と異なる特徴を持っていることは意外と知られていないようです。そこで、知っているようで知らない「挂甲武人」の真実について、今回は紹介します。
2024年は国宝指定50周年!
「挂甲武人」は国宝に指定されて令和6年(2024年)で50周年を迎えます。それを記念して、10月から特別展「はにわ」が東京国立博物館と九州国立博物館で開かれます。※参考HP(展覧会公式サイト):挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展「はにわ」
ちなみに、令和4年(2022年)から修復作業に入っていた「踊る埴輪」も、この特別展が修復後初お披露目となりますので、埴輪界の2大スターの共演が実現します!とても楽しみですね。
先述した通り、この「挂甲武人」は他の国宝埴輪と異なる特徴を持っています。その特徴について他の国宝埴輪と比べながら見ていきましょう。
「挂甲武人」の特徴
特徴1:単品指定は「挂甲武人」のみ!
「挂甲武人」は、単体で国宝に指定されています。一方で令和2年(2020年)に国宝となった「綿貫観音山古墳出土の埴輪」は、その名の通り、綿貫
観音山古墳から出土した埴輪22点が1セットで国宝指定(正確には、埴輪だけでなく出土した金属器や玉類、土器など全てが国宝指定)となっています。
また、令和6年(2024年)に国宝となった大型の舟形埴輪(通称はにシップ)で有名な「宝塚1号墳出土の埴輪」も同様に、当古墳から出土した“埴輪8点”が1セットとして国宝指定となりました。
このように、単体で国宝指定を受けている埴輪は「挂甲武人」だけなのです。(1機で数個師団に匹敵するモビルアーマーを思い出します…)
「挂甲武人」、凄い!!
特徴2:最新研究で3つの色で塗り分けられていた派手埴輪だった!
埴輪といったら“茶色”のイメージが強いと思います。しかし、“埴輪大国群馬”などでは、赤色の染料を用いた2色の埴輪が確認されています。ところが、「挂甲武人」は最新の研究で、“白色を基調として茶色・赤色を使った3色”で塗り分けられていることが分かりました。ちなみに、他の国宝埴輪が色付けされていたかどうかは今のところ分かっていません。ですから、3色も用いられていると判明した埴輪は現在のところ「挂甲武人」だけです。
「挂甲武人」、派手!!
※参考HP(文化財活用センター):埴輪 挂甲の武人(彩色復元)
特徴3:出土地を把握している人が少ない
ここで、有名な埴輪に関する問題を出題します。- 【問1】有名な「踊る埴輪」が出土した場所は?
- 【問2】「3人童女」等、2020年に国宝となった埴輪が出土した場所は?
- 【問3】大型「舟形埴輪」等、2024年に国宝となった埴輪が出土した場所は?
- 【問4】元祖国宝埴輪「挂甲武人」が出土した場所は?
みなさん、何問答えることができましたか?それでは正解の発表です!
- 【問1の答え】埼玉県熊谷市にあった「野原古墳」
- 【問2の答え】群馬県高崎市にある「綿貫観音山古墳」
- 【問3の答え】三重県松坂市にある「宝塚1号墳」
- 【問4の答え】群馬県太田市にあった“長良神社境内”
問1を正解した人は、埴輪マニアですね。問2&3を正解した人は、歴史マニアですね。
そして問4は…。なんか気になる答えですよね。というのも「神社から出土した」とは一体どういうことなのでしょうか?
御神体だった?? いえ、「挂甲武人」もしっかりと “古墳” から出土しています。しかし、“どこの何古墳” かを知っている人は少ないと思います。
「挂甲武人」、謎!!
「挂甲武人」の謎に迫る
謎を謎のまま終わらせてしまうと、タイトル詐欺と言われてしまいます。ですから、いろいろと調べてみました。すると、この「挂甲武人」にはなかなか興味深い真実があったのです。群馬県太田市には優れた埴輪職人が住んでいた?
先ず皆さんにお伝えしたいのは、今回の主役である「挂甲武人」と非常によく似た“武人埴輪”は他にも4例あり、その全てが群馬県太田市とその隣の伊勢崎市から出土しているということです。つまり、群馬県太田市周辺には当時、“高い技術を持った優れた埴輪職人(集団)”が住んでいたことが分かります。なお、「挂甲武人」と太田市成塚町から出土した“武人埴輪”の2体は特に似ていて、背中に靫を背負い右手で太刀の柄を握る“抜刀スタイル”です。
「挂甲武人」が出土した長良神社
太田市飯塚町にある長良神社には、現在「挂甲武人」のレプリカが建っています。そのため、この神社を訪れる埴輪の聖地巡礼者は多いようです。しかし、「挂甲武人」はこの長良神社境内から出土したわけではありません!!では、「挂甲武人」はどこから出土したのか? この真実に迫るには、発見された当時の様子から説明する必要があります。
「挂甲武人」出土地の真実
長良神社がある飯塚町は、大正初期まで “カミ、ナカ、シモ、マツバラ” の4地区に分かれていて、現在レプリカの建つ長良神社は “ナカ” の長良神社です。そして実はもう一つ、マツバラにも長良神社があったようです。この “マツバラ” の長良神社の境内には小高い塚(古墳)があり、明治末の神社合祀令によって “ナカ” の長良神社と合併して取り壊された後も、塚はそのまま残されました。しかし、昭和初期に日本を襲った大不況(昭和恐慌)の対策として実施された公共事業で、昭和8年(1933年)に道路工事を行う際に使う土として、この塚は崩されてしまいます。
この時に発見された多数の出土品の一つが「挂甲武人」でした。ですから、本当の出土地は、今はもう存在しない「マツバラの長良神社境内にあった古墳」なのです!
マツバラの長良神社にあった古墳とは
昭和49年(1974年)に群馬県文化財保護協会が作成した『群馬県遺跡地図』でこの地域を見ると、「飯塚古墳群」として7基の古墳を確認(現在は11基確認)することができます。このため、「挂甲武人」が出土した古墳は「飯塚古墳群にあった古墳」であることがわかりました。なお、現在の “マツバラ" の長良神社跡地は完全に住宅地となっており、神社や古墳があった名残が全く感じ取れません。非常に残念です。
その後の「挂甲武人」
「挂甲武人」を含む出土品のほとんどは、しばらく近所の家の物置に置かれていたようですが、ほとんどが叩き壊されてしまったようです。しかし、少し壊れた程度で発見された「挂甲武人」だけは、東京に住む彫刻家&修復家の松原正業氏に修復を依頼し、そのまま松原氏の物となりました。昭和27年、松原氏は帝室博物館(今の東京国立博物館)に「挂甲武人」を寄贈し、ここで再度修復されて昭和33年(1958年)に国の重要文化財となります。そして、昭和49年(1974年)6月8日に国宝埴輪第1号になったのです。
波乱万丈な埴生(はにせい)だった「挂甲武人」
今回は「挂甲武人」に関して、非常に曖昧だった出土地の真実を紹介しました。埴輪大国・群馬の中でも特に技術が高い優れた埴輪職人によって造られた「挂甲武人」。しかし、元々いたお家(古墳)は無くなるどころか、一緒に発見された仲間(他の出土品)まで叩き壊され、ひょっとしたら「挂甲武人」も壊されていたかもしれません。
そう考えると、波乱万丈な埴生の「挂甲武人」。令和6年(2024年)、造られた当時の色が判明し、ようやく“本当の自分”を知ってもらえたことで、さぞ喜んでいるのではないでしょうか。
【主な参考文献】
- 『九合村物語〜77の秘密〜』九合村物語編集委員会 太田市(2013年)
- 『群馬県遺跡地図』群馬県文化財保護協会 群馬県(1974年)
- 『埴輪』若松良一 ニューサイエンス社(2021年)
- 『古墳時代の鏡・埴輪・武器』樋口隆康、大塚初重、乙益重隆 学生社(1994年)
- 『HANI-本』右島和夫、若狭徹 群馬県(2020年)
- 東京国立博物館HP
- 群馬県東国文化ポータルサイト
- 文化庁HP
- 文化遺産オンライン(文化庁)
- 松阪市ホームページ 文化財センター(はにわ館)
【取材協力】
- 東京国立博物館
- 群馬県文化財保護課
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