秀吉と家康の信頼を勝ち取った京極高次 苦境から一転…なぜ復活を果たすことができたのか?
- 2024/06/25
京極高次とは
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦において、東軍に与した大津城(滋賀県大津市)主の京極高次は、永禄6年(1563)に高吉の子として誕生した。京極氏は南北朝時代に活躍した近江国守護・佐々木導誉を祖とする名族であり、室町幕府では侍所所司を務める家柄だった。ところが、応仁・文明の乱を境にして著しく衰退し、同族の六角氏やかつて配下にあった浅井氏の後塵を拝することになった。ところで、高次には先見の明がなかった。天正10年(1582)6月、本能寺の変で織田信長が本能寺で横死したとき、高次は明智光秀に与していた。その直後、光秀が山崎の戦いで羽柴(豊臣)秀吉に討たれると、一転して高次は秀吉から追われる身になった。美濃国を経て、同じく光秀に味方した若狭の武田元明のもとへ逃れ、一時期は柴田勝家に匿われる始末だったという。
この危機的状況の中、高次は秀吉の側室だった妹の竜子(松丸殿)に救われた。竜子が秀吉に助命を嘆願したので、高次は死を免れたのである。そして、天正12年(1584)に秀吉から近江国高島郡に所領2500石を与えられ、その2年後の天正14年(1586)には5000石を加増された。その翌年、高次は浅井長政とお市の方の遺児・初と結婚したのである。
天正16年(1588)、高次は大溝城(滋賀県高島市)を与えられた。2年後の小田原征伐では大いに軍功を挙げ、近江八幡(滋賀県近江八幡市)に28000石を領することになった。さらに羽柴姓も許され、のちには従三位・参議に叙位・任官されるなど、秀吉から破格の扱いを受けた。一度は苦境に追い込まれたものの、高次は見事に復活したのである。
京極高清
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高吉 高延
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竜子 高知 高次
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忠高
高次に急接近した徳川家康
慶長3年(1598)8月に秀吉が亡くなると、高次に急接近したのが徳川家康だった。家康は大津城が京都への入り口に位置したので、将来的に重要な攻防の拠点になると考えたのであろう。家康は大津城に修理が必要なことを知ると、高次に白銀30貫文を修繕の費用として贈ったという。このことにより、高次の気持ちは家康に傾いた可能性がある。しかし、石田三成が家康に挙兵し、関ヶ原合戦が開戦すると、高次はなぜか西軍に与したのである。西軍には、子の熊麿(のちの忠高)を人質として送っていた。そして、前田利長を討伐すべく、2000の兵を率いて出陣したのである。
この間、三成は高次に西軍のために大津城を明け渡すよう求め、兵を置きたいと要請したが、ことごとく断られたという。
ところが、8月23日に西軍の織田秀信が籠城する岐阜城(岐阜市)が東軍に落とされると、高次は方針を変更して東軍に寝返ることにし、近江へと帰還した。岐阜城が落城することは、まったく予想さえしていなかったのだろう。以後の高次は、清洲(愛知県清須市)に駐在していた弟の高知との連絡を密にして状況を注視した。高知は家康の会津征伐に出陣していたが、三成が謀叛を起こしたので、西上していたのである。
東軍に寝返った高次
慶長5年9月3日、西軍は高次が大津城で籠城の準備を進め、裏切ったことを知った。同日、高次は家康に密書を送ると、味方になることを伝えたのである。驚いた淀殿は使者を遣わし、高次に繰り返して翻意を促したが、説得工作は失敗に終わったという。同年9月12日になると、立花宗茂、毛利元康、毛利秀包、筑紫広門、宗義智ら西軍に与した九州の諸大名が率いる約15000という大軍は、寝返った高次が籠る大津城を攻撃したのである。
西軍は大津城に大砲を撃ち込み、天守を大破させるなどしたので、一方的な戦いになった。大津城が砲撃された際、高次の姉・芳寿院が気絶しただけでなく、その侍女2人が巻き添えで亡くなった。城内には厭戦ムードが漂い、砲撃による恐怖に包まれたものの、高次は徹底抗戦の姿勢を決して崩さなかった。
敗北後、復活した高次
同年9月14日、西軍は大津城に高野山の僧侶・木食応其を遣わすと、高次に降参するよう勧告した。すでに高次には戦況を有利にする目途がなく、家康に援軍を乞うことも難しくなっていた。高次は徹底抗戦しようとしたが、最終的に降参することを決意したのである。関ヶ原合戦で東軍が勝利したのは、翌9月15日のことだった。しかし、高次が西軍に徹底して抗戦したことは、決して無駄ではなかった。約15000の西軍の軍勢は、関ヶ原に出陣することができず、大津城の攻撃に忙殺されていた。もし、彼らが関ヶ原に向かっていれば、西軍が勝利したとは言い難いかもしれないが、大きく戦況が変わっていた可能性があろう。
高次は西軍に降伏すると、すぐに三井寺(滋賀県大津市)に入寺した。その後、高次は落飾すると、高野山(和歌山県高野町)へ向かったのである。ところが、家康は、高次が大津城で西軍に善戦したことを高く評価していた。家康は高野山へ使者を派遣すると、高次に繰り返し出仕を要請したのである。
当初、高次は家康の求めを断っていたが、その強い説得に折れ、ついに出仕することを決意した。家康は高次に対し、恩賞として若狭小浜(福井県小浜市)に85000石を与えた。こうして高次は破格の待遇で、家康に登用されたのである。それまでは失敗と成功の繰り返しだったが、ついに報われたのである。
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