江戸へやって来た三大外国使節団 オランダ商館長の一行は至れり尽くせりの旅だった!?
- 2024/09/06
江戸時代、日本は鎖国政策をとっていましたが、まったく外国と交流しなかったのではありません。オランダ・朝鮮・琉球。この三国との間には外交や通商関係がありました。そしてそれぞれの国の代表が徳川将軍に拝謁するため、江戸へ外交使節団を送っています。中でもオランダ商館長の一行は目を見張るものがありました。
出島のオランダ商館長
オランダは東インド会社の支部の1つとして、長崎の出島に商館を置いていました。出島は、キリシタン禁教政策の一環として、江戸幕府が長崎に来航するポルトガル人を隔離、収容するため、1636年に造った人工の島です。しかし島原の乱ののちの寛永16年(1639)、幕府はポルトガル人の来航を禁止。寛永18年(1641)には平戸にあったオランダ商館をここに移転させて、鎖国の間は長崎に来航するオランダ人の居住地にあてました。
オランダ商館長は「カピタン」、副館長は「ヘトル」と呼ばれ、筆記役・医師・荷倉役・台所役など、10人前後の商館員が常駐しています。医師では鳴滝塾を開き、蘭学の礎を築いたシーボルトも商館員でした。
商館長の任期は1年で、新しく着任した者は海外情報を取りまとめ、長崎奉行所に「オランダ風説書(ふうせつがき)」として提出します。長崎のオランダ通詞が翻訳したものが江戸へ届けられ、鎖国中の日本は貴重な海外情報を得ることが出来ました。
幕府は旗本の中から長崎奉行を選び、都市行政を担当させ、オランダ商館を管轄下に置いて、貿易の管理や外交交渉にも当たらせました。
オランダ商館長が幕府から求められた義務は「オランダ風説書」の作成に加えて、江戸に参府して江戸城で将軍に拝謁することです。貿易を許可されていることの御礼言上と、その継続を願い出ねばならないとされました。
当初、江戸へ行くのは不定期だったのですが、寛永10年(1633)から毎年の参府が義務となります。さすがに負担が大きいので寛政2年(1790)以降は5年に1度に改められますが、それでも嘉永3年(1850)まで続いた江戸参府は実に166回を数えました。
60人ばかりの行列
寛文元年(1661)から商館長一行は正月の15日か16日に長崎を出発し、江戸城で将軍に拝謁するのが3月の1日か15日、5月か6月には長崎に戻る日程になります。当初、下関までは海路でしたが玄界灘での遭難を心配して小倉までは陸路に変更、その後は瀬戸内海を進んで室津か兵庫で上陸します。大坂・京都を経て東海道で江戸へ向かいました。
一行には商館長の他、随員として書記や医師など4人ほどのオランダ人が加わり、その他の正副の検使や通訳・会計係・書記は日本人で固められました。しかし、一行の人数は60人余りに膨れ上がります。なぜかと言うと将軍や世継ぎへの献上品、老中や若年寄など、幕閣・京都所司代・大坂城代などへの進物を運ぶのに何人もの人足が必要だったのです。彼らは日雇い頭や宰領頭に率いられて行列に加わりました。
至れり尽くせりの旅
船に乗っている間は風任せですが、上陸してからは将軍拝謁日を間違えることがないよう、出来るだけ急いで1日の距離を稼ぎます。そんな彼らを、通過する藩は接待攻めにしました。ある藩から他の藩領に入ると、すでにそこには藩主から派遣された重臣が歓迎の挨拶を伝えるために出向いています。必要な馬や人足も黙っていても余るほど提供され、オランダ人1人1人に4人の従者兼警護の侍をつけてくれます。行列には黒紋付の2人の堂々とした侍大将が杖を持って従い、国境まで先導してくれました。国境へ着けばそこで別れの酒宴になるのですが、これが江戸までの間、次々と繰り返されたようです。
なぜそれほど優遇されたのか? 鎖国時代、大名であっても外国の情報に触れる機会は限られていました。それが本物のオランダ人、しかも海外の事情を知っている商人ならば珍しい話が聞けるだろうと、蘭学かぶれの大名などは手ぐすね引いて待ち構えていたのです。
宿場では本陣に宿を取り、門の前にはオランダ領東インド会社の幔幕と紋章が掲げられ、オランダ商館長様御一行御宿泊を知らせます。なお、小倉・下関・大坂・京都・江戸では専用の宿所オランダ宿が用意されていました。これらの宿は小倉なら大坂屋善五郎、京都なら海老屋与右衛門など、土地の豪商の屋敷がオランダ宿に指定されます。
江戸入り
江戸に到着すると、一行は江戸のオランダ宿長崎屋に宿泊します。長崎屋は国産の薬や輸入薬を扱う薬種問屋で、オランダ商館長の江戸参府ではオランダ宿として宿を提供する役目です。商館長が登城する時には先導役も務めます。江戸城での将軍拝謁など一連の儀式が滞りなく終わると、江戸を出立するまでの1ヶ月ほどは自由時間です。この貴重な機会を待っていた海外事情に関心を持つ日本人が、ひっきりなしにオランダ宿を訪ねてきました。江戸住まいの諸大名や幕府の役人、民間の医者や学者などが、直接オランダ人と話せるチャンスを逃すまいと、なんとか縁故を頼って訪問するのが江戸の春の風物詩になっていたほどです。
江戸を出立する前日、商館長は再び登城し、日本にいる間は守らねばならない「御条目」を読み聞かせられます。
- 一、ポルトガル人と通交してはならない。
- 一、通交している事が判明すれば日本への来航は禁止とする。
- 一、ポルトガル人について報告すべき事があれば直ちに報告せよ。
などですが、キリスト教布教に熱心だったポルトガルへの幕府の警戒心が窺えます。この後、将軍とお世継ぎから夏の帷子・冬の綿入れと季節の衣装が下賜され、江戸城での儀式は終わります。
帰路は物見遊山
お役目も終わっての帰り道、商館長一行は物見遊山の旅でした。京都では京都所司代や京都町奉行の元に進物を届けると、知恩院や清水寺・三十三間堂に伏見稲荷…、と現代の訪日外国人と同じコースを回り、同じように大量の工芸品を買い込みます。
大坂でも大坂城代や大坂町奉行のもとに進物を届け、住吉大社で神楽を見物し、天王寺の五重塔に上り、道頓張りの門座で芝居を見物し、とここもお馴染みのコースです。
下関では伊藤家か佐甲(さこう)家に泊まりますが、両家とも無類のオランダ好きで知られていましたから、またもオランダの話をねだられたのでしょう。
おわりに
この後、一行は小倉に着くと、まもなく戻るとの書面を出島に送り、長崎に到着すると、長崎奉行所に出頭して無事帰着の礼を述べます。会計処理を済ませて出島へ戻れば江戸参府の日程はすべて終了となります。ご苦労様でした。
【主な参考文献】
- 安藤優一郎『江戸の旅行の裏事情』朝日新聞出版/2021年
- 片桐一男『江戸のオランダ人』中央公論新社/2000年
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