神君伊賀越えは家康の「影の軍団」の援助無くして成功しなかった?!
- 2023/07/10
徳川家康の「伊賀越え」は生涯最大の危機の1つとして有名である。定説によるならば、家康は大変な幸運の持ち主ということになると思われる。ところが史料を読み解くと、どうも家康を陰ながら支援する勢力の存在があるように思えてならなかった。「伊賀越え」が成功したのは、果たして単に幸運によるものなのか否か史料は何を語ってくれるのだろうか。
本能寺の変 ~ 信長死す ~
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変が勃発。天下統一を目前に、織田信長は本能寺にて横死する。遡ること半月ほど前、家康は安土城に招かれ、信長に歓待を受けたばかりであった。饗応役は明智光秀であったとされている。その光秀が本能寺の変を起こしたのだから、家康一行はさぞかし驚いたであろう。
本能寺の変の知らせは、堺を周遊していた家康一行の元へも程なく届いた。そのとき、一行は堺の松井友閑の屋敷から京都へ上洛する途中であったという。家康は信長死すとの知らせに取り乱し、京の知恩院で腹を切ると言って聞かなかったというのは有名な話である。結局、本多忠勝ら側近に説得されて畿内からの脱出を模索することになる。
ちなみに上洛の途中で本能寺の変の勃発を知らせたのは茶屋四郎次郎だったという。私はこの茶屋四郎次郎がこの伊賀越えのキーマンの1人であると睨んでいるが、これについては後述する。
畿内からの脱出
本能寺の変直後の京周辺は明智光秀の制圧下にあり、信長の同盟者であった家康は明智方にとって敵も同然であった。家康一行は下手に動けば、明智軍に討たれる可能性があったのである。脱出ルートの選定が極めて重要である中、一番安全そうな堺からの海路を選択しなかったのはなぜなのか。これには主に2つの理由があると思われる。
まずは、堺から三河への海路をとった場合、紀伊半島の南を通ることになるが、この海域は波が非常に荒いことで有名だったという点である。最悪、船が沈没する恐れすらあったのだ。
もう一つは、本能寺の変が起こった6月2日の時点で、堺の港は四国征伐をひかえた九鬼嘉隆の鉄甲船9隻及び志摩・鳥羽水軍に紀伊海賊100艇が待機している状態であったという点だろう。
堺の港は軍船で埋め尽くされ、商船が入港できないと、商人が嘆いていたという話が伝わっている。要は船そのものが調達できない可能性が大だったのである。消去法的に、家康一行は三河まで安全に航行できる港に行きつくまでの陸路を模索せざるを得なかったのではないか。
諸説ある伊賀越えルート
6月2日の深夜、茶屋四郎次郎から信長死すとの報を知らされたとき、家康一行は河内国の飯盛山の麓に滞在中だったという。このとき、家康一行の案内役であったのが俊英として知られる織田家臣・長谷川秀一であった。土地勘のある秀一が案内役であったのは不幸中の幸いと言ってよいであろう。河内から山城、近江を通り伊賀へ抜けるルートを教えたのは秀一であるという。
また、大和国衆の十市遠光に一行の護衛兵の覇権を要請し、脱出ルート上の山城宇治田原城主・山口甚介に書状にて窮状を説明した。甚介は家臣を派遣し、宇治田原城まで家康一行を案内し、城内で一泊させている。
その次の日も、秀一のつてで近江信楽の代官・多羅尾光俊の小川館に宿泊し、その所領を通って伊賀を越えている。
ちなみに、信楽は甲賀にある。おそらくは多羅尾光俊の計らいだと思われるが、小川館を出立する際には甲賀の国衆が家康のもとに集まっていたという。その数約100人とも言われている。時を同じくして伊賀の国衆達も集まってきたというが、こちらは服部半蔵の働きであろう。こちらはその数200人という。
さて、小川館から先のルートであるが、歴史学者の藤田達生氏によると3つの説があるという。
一番可能性が高いルートは『石川忠総留書』にある、近江神山を経て桜峠を越えて伊賀丸柱→伊賀石川→伊賀河合→伊賀柘植と進み伊勢へと抜けるコースである。
これに次いで可能性が高いのは、『戸田本三河記』の、桜峠を越えず甲賀信楽から甲賀油日に抜けて伊賀柘植を経由して伊勢に抜けるコースである。このコースは油日に至る経路上には近江甲賀郡和田があり、この地の領主・和田定教に宛てた天正10年(1582)6月12日付家康起請文が残されている。甲賀での道案内を謝する内容であることから、このコースの可能性も否定できないのだという。
可能性がかなり低いと思われるルートとしては、『徳川実記』の、小川館から多羅尾方面へ向かい御斎峠を越えて伊賀丸柱に至るコースである。このコースは、遠回りである上に、伊賀惣国一揆の際に政庁が置かれていた伊賀上野にやや近い経路であることから、かなり無理があるのだそうだ。
私は、慎重な家康の性格を考えると『戸田本三河記』に分があると思っているが、このコースは伊賀を通る距離が僅か5km程になってしまい、それはそれで拍子抜けした感はある。
謎
わたしが謎だと思っているのは、この脱出ルートのことではない。最も謎だと思うのは、この伊賀越えがなぜこれほどまでに幸運に支えられたのかという点である。まず、家康の供廻りが40名ほどで、しかも具足も付けない軽装であったことに注目しよう。
当時の状況は甲斐の武田が滅び、信長の天下統一は目前という段階にあった。とは言え、毛利攻めはまだ継続中であったし、四国征伐がまさに始まろうとしていたこの時期にしては、少々配慮を欠く行動と言わざるを得ない。さらに、関東の両国運営に関して信長と北条氏政は微妙な関係にあり、北条方の刺客が放たれないとも限らない状況にあった。
結果的に何事もなかったのは幸運以外の何物でもないと言ってしまえばそれまでである。しかしこれは本当に「幸運」によるものだったのだろうか。これに関して、気になる点は服部正成(半蔵)の名が供廻りの中にあると言う点だろう。
正成の父・保長は伊賀北部を領する千賀地氏の長、いわゆる忍者だったことがわかっている。後に家康の祖父・清康に仕えるようになったことから三河に移住したと思われる。よって正成は忍者ではないが、伊賀の国衆に顔がきくという利点があったのである。
そんな正成が伊賀越えに参加することになったのは単なる偶然だろうか。いくつかの点から私は、家康が畿内滞在中に何らかの変事が起こることを知っていたと睨んでいるが、正成を同行させたのも、その対応策だったのではないか。
疑り深い信長を刺激しないように、あえて表向きは少人数で軽装で出向いたと考えると、家康一行は出立の時から伊賀者に陰ながら護衛されていたと考えるのが自然だろう。
それを裏付ける話がある。
天正9年(1581)の第二次天正伊賀の乱の際、正成を頼って三河に落ち延びてきた伊賀者を家康が匿ったというのだ。伊賀越えを陰で支えた伊賀者が200人ほどいたらしいことは前述したが、これは家康に匿われた伊賀者が中心となって編成されたとは考えられないだろうか。
とすると、畿内からの脱出ルートは前もってある程度選定されていた可能性がある。前出の藤田達生氏によると、伊賀越えに関する史料は甲賀者の家にしか伝来していないそうである。ひょっとすると、伊賀者が前もって伊賀越えを想定していたことを隠すためにわざと書状を残さなかったのではないか。
茶屋四郎次郎清延の動きも気になっている。茶屋四郎次郎というと、京都の豪商というイメージがあるが、以前は家康の家臣であったという。槍働きというよりは、主に軍事物資の運搬を担う舞台に所属していたと言われていて、数多くの戦いに参戦している。
軍事物資調達に詳しい清延が堺周遊からずっと家康一行につき従っているのは何故なのか。やはりある種の変事が起こることを想定してしていたように思えてならない。
あとがき
伊勢長太まで無事たどり着いた家康一行は、角屋七郎次郎秀持が手配した船により、無事三河大浜までたどり着いた。実は、家康に同行していた者の中で無事三河にたどり着けなかった者がいる。武田から寝返って家康の与力となっていた穴山梅雪である。梅雪の死については、フロイス『日本史』などにあるように、家康を警戒して別ルートを選択したことが裏目に出て、一揆勢に襲われて殺されたと言うのが定説となっている。しかし、三河大浜で家康一行を出迎えた松平家忠が記した『家忠日記』には「穴山は腹を切ったそうだ」とある。
一見矛盾する記述であるが、ふと一揆勢の人数が200名程度であったらしいということを思い出して ”ハッ” とした。家康に協力した伊賀者の人数とほぼ同じなのだ。
これも単なる偶然なのか、半蔵が生きていたら聞いてみたいところである。
【主な参考文献】
- 桐野作人『<徳川家康と本能寺の変>主従わずか数十人 苦難の伊賀越え』(学研プラス、2014年)
- 谷口克広『信長と家康-清須同盟の実体』(学研パブリッシング、2012年)
- 今谷明『天皇と天下人』(新人物往来社、1993年)
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