「斎藤義龍(斎藤高政)」父親である道三との確執から、弟・父殺しを決意!?
- 2019/07/03
斎藤義龍(さいとう よしたつ)といえば、戦国屈指の知名度を誇る父・斎藤道三を破り、彼を追放したということで有名な戦国大名です。ただし、父道三の野望を終わらせた悪役として描かれることも多く、彼の生涯や事蹟については道三ほどよく知られているとはいえません。そこで、この記事では義龍の実像を文献や史料をもとに解説していきます。
家督を譲られるも、父道三と対立
享禄2(1529)年、義龍は斎藤道三の長男として誕生、母は側室の深芳野であるとされ、幼名は豊太郎を名乗っています。なお、義龍は生涯で何度も名を変えていることが特徴であり、その点についても意味を解説していきますが、本文中の記載は「義龍」で統一していきます。
家督継承
義龍が若かりし頃の細かな記述や逸話はあまり残されていませんが、彼が8歳の天文5(1536)年までには元服して「新九郎」を名乗っていたようです。一時期は尾張国の佐治氏に預けられていたことも。そして家督相続は天文23年(1554年)、義龍26歳のときに行われたようです。その根拠は同年の3月に義龍が判物(文書)を発給している点、そして翌年の道三の書状の内容などから推測されています。
ただし、義龍が判物を出した数日前に、道三が同じ宛先にほぼ同内容の判物を送っているという事実には注目しなければなりません。これは、道三が出した判物を義龍が追認したということであり、他の大名をみても前例がないようです。
このため、義龍が「道三は引退する気がなく、院政を敷くのでは…」と疑念を抱いたのかもしれない、という指摘もあります。
改名に秘められた驚愕の意味とは
その証拠に、義龍はこの時期に名前を「利尚」から「范可(はんか)」に改めています。利尚という名については父の実名である利政から与えられたもので、美濃守護代であった斎藤氏が通字でもあるため問題はありません。特筆すべきは「范可」という改名後の名です。これは中国・唐の時代に止むを得ない事情により父親を殺した人物の名であり、「父殺し」を象徴するものとして考えられています。義龍はこの改名時点ですでに父への叛意が明確になっていたのでしょう。
父子不仲の原因とは
『信長公記』によると、道三は義龍のことを愚か者と思い込み、弟の二人を溺愛。これに対し、義龍はないがしろにされた鬱憤を晴らすため、ついには仮病を使って弟二人を誘い出して切り殺したといいます。また、「義龍は深芳野と国を追われた前守護・土岐頼芸の子である」という「義龍土岐氏説」を主張する向きもあります。ただし、この風説については江戸時代後期になって生まれてきた俗説であるという見方が一般的です。
もっとも、そもそも義龍にとっては「成り上がり者の父」よりも「名家土岐氏の末裔」であることのほうが都合良かったのは事実です。そのため、義龍の手によって出自が改ざんされている可能性こそ否定できないものの、現状では彼が道三の実子か否かを確かめるすべはありません。
父道三を討ち、信長との対立へ
名実ともに美濃国主へ
改名にもみえるように、父との対立を明確にした義龍は、弘治元年(1555年)の合戦で道三を破り、彼を政権から追放して落ち延びさせました。さらに、翌年には長良川において道三を討ち、事実上美濃を平定します。こうして「父殺し」の悲願を果たした義龍は、名前を「范可」から「高政」に改名しました。彼にとってすでにこの名は不要になっていたのも道理で、対外的な目もあったのでしょう。
軍略家として知られた道三が比較的容易に敗れ去った理由として、彼の「国盗り」が少々強引なものであったため、旧土岐氏派の離反を招いたことが原因と指摘されることも。
また、土岐支持層の力を借りて道三を討ち果たしたという経緯から、「義龍土岐氏説」は正統性を帯びたのかもしれません。
信長の兄弟と通じる
義龍は道三派を残らず討ち取ると、彼らが手にしていた所領をそのまま部下に与えることで恩賞としていました。ただし、その後はこのような「中世的な荘園制度」を廃し、郡や郷という単位で恩賞を与える「近代的な封建制度」を導入したようです。これは織田信長が躍進を果たした原因として称賛される政策ですが、ほぼ同時期に隣国でも同じような切り変わりが見られたということを意味します。
義龍は必然的に父の親戚である信長とも敵対関係に。義龍は織田家瓦解を目論み、当時信長と不仲だった彼の兄弟に着目して、通じます。
一人は信長の実弟・織田信行(信勝)です。信行は道三死後まもない弘治2年(1556年)8月に一度、家督を狙って謀反を起こしています。その後も謀反をたくらみ、義龍と密に連絡をとりあっていましたが、やがて信長の知ることになり、最終的には処刑されています。
もう一人は信長の庶兄である織田信広です。彼もまた同じころに義龍と連携して謀反を計画しますが、信長に察知されて未遂に終わっています。
権威にこだわった義龍
さて、ここで義龍の中央政策などにも触れてみましょう。官位の獲得
義龍は信長と異なり、「官位」の獲得に注力していました。弘治4年(1558年)には朝廷から正五位下にあたる「治部大輔」という役職への任官を承認されています。信長が名乗った「上総介」の官位は従六位上なので、それよりも大きく凌いでいるのです。この役職は清和源氏の血統を継ぐ由緒正しい人物が任じられるという慣例があり、彼にとっては「土岐氏の末裔という正統性」を誇示する目的があったのでしょう。
幕府の相伴衆に
また、永禄2年(1559年)には室町幕府の14代将軍義輝によって「相伴衆(しょうばんしゅう)」に加えられています。この職は将軍を補佐する名誉あるものと考えられており、義龍の目的を果たすのに十分であったことは言うまでもありません。ちなみに現在よく知られる「義龍」へと改名したのも同年であり、義輝から「義」の字をから与えられたためと推測できます。
永禄別伝の乱
それでも「官位獲得路線」を邁進する義龍は、永禄4年(1561年)に左京大夫という職へ就任すると、自身の姓を清和源氏の末裔である「一色」に改めました。ここで姓を土岐氏ではなくあえて一色氏とした理由は、- 家格や官位の点でみれば一色氏の方が格上
- 一色氏以外の格式高い姓は様々な理由で名乗れなかった
- 斎藤氏を名乗るのは都合が悪い一方、改名による土岐氏の復権も防ぎたかった
- 成り上がり者という誹りを避けたかった
などの点が考えられます。
道三に代表されるように斎藤家は代々日蓮宗の家系でしたが、義龍が清和源氏の末裔を名乗ったことで慣例によって禅宗への改宗、さらには、彼がこれまで菩提寺として指定していた日蓮宗の常在寺に代わる新たな寺社を建立する必要が生じました。
しかし、彼は上記の件を美濃の高名な僧侶・快川紹喜(かいせん じょうき)に相談せずに、京都から別伝という僧を派遣させたため、これが引き金となって彼らが属した妙心寺一派が内部分裂を起こします。そしてこの騒動に将軍や朝廷・大名が介入し、一気に泥沼化の様相を呈してしまいます。
この一連の騒動は「永禄別伝の乱」と名付けられ、戦国期における宗教対立の恐ろしさを我々に教えてくれます。
思いがけない最期
こうして権力と権威を手中に収めた義龍でしたが、義龍の生涯が順風満帆であったかといえば、必ずしもそうではありませんでした。永禄3年(1560年)4月には彼の第一子が早逝し、続く7月には、悲しみのあまりに妻までもが亡くなってしまったようです。ちなみにこの妻は後妻にあたる一条氏と推定されており、前妻は浅井久政の娘だったとか。
つまり、かつて齊藤氏と浅井氏は同盟関係にあったが、義龍が浅井方との同盟を解消して前妻を近江へと送り返していたようです。事実、義龍は浅井と敵対関係にあった六角氏と同盟関係となり、浅井領である北近江に出兵した形跡がみられます。
そして思いがけないことに、義龍が左京大夫に任じられてからまもなくの永禄4年(1561年)5月にまさかの急死。まだ32歳という若さでした。
義龍の死により、美濃国を含めた情勢が一気に急展開していくことになります。
先ほど触れた快川と別伝の対立は、義龍の死をキッカケに後ろ盾を失った別伝らが捕縛され、処刑されるという結果に終わっています。また、信長が美濃への侵攻を本格化させ、結局、後を継いだ子の龍興はそれを防ぎきれずに美濃を追われることになるのです。
【参考文献】
- 木下聡「総論 美濃斎藤氏の系譜と動向」『論集 戦国大名と国衆16 美濃斎藤氏』岩田書院、2016年
- 横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興』(戎光祥出版、2015年)
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