「督姫」北条氏直と池田輝政、2度大名に嫁いだ家康次女は家族を大事にする女性だった!

 戦国時代から江戸時代にかけて、大名の娘は政略結婚という政治における重要な役割を担わされる存在でした。大名の妹と婚姻すれば国人領主はその後ろ盾を得ることができ、大名にとってもその地域が安定することになります。大名同士でも娘が嫁いだ先との関係が安定するため、婚姻政策は積極的に行われました。

 例えば甲相駿三国同盟は武田・北条・今川がそれぞれ当主の妹や娘を嫁がせることで同盟を強固にして後方の安全を図りました。信長と斎藤道三の関係も、信長に濃姫が嫁ぐことで両者の同盟関係を担保しました。

 このような婚姻政策は徳川家康も多数利用しています。その中でも、家康が娘を嫁がせた相手は当時の家康の外交方針が色濃く反映されています。特に次女の督姫(とくひめ)は2度大名に嫁いでいますが、どちらも家康や周辺状況を強く察することのできる相手です。彼女は2度とも相手の家に対し、義理堅い行動をしており、結婚相手を自分で決められないながらも芯の強さを感じさせる一面を持っていました。

 今回はそんな督姫について、活動の記録を元に人物像を探っていきたいと思います。

督姫の誕生

 督姫は徳川家康の次女として生まれました。母親は側室の西郡局(にしのこおりのつぼね)です。

 西郡局は今川家臣である柏原鵜殿氏の養女で、父が加藤氏の出身です。養母が今川義元の妹であり、東三河における今川氏のまとめ役だった鵜殿氏を屈服させた証明となるため、正室の築山殿が許可したと思われます。

※参考:西郡局の略系図。長忠は長祐の養子として柏原家を継いだ。
※参考:西郡局の略系図。長忠は長祐の養子として柏原家を継いだ。

 督姫の生年については永禄8年(1565)説と天正3年(1575)説があります。2つの説は子どもの年齢で考えると天正説の方が有力となります。これは、後述する2度目の婚姻の後、最後の子どもの出産年齢が大きな要因となります。

 ここであらかじめ、督姫の子女について一覧でまとめておきます。
 ※()の数字は誕生年です。

北条氏直との間にもうけた子女

  • 摩尼珠院殿(?)
  • 宝珠院殿(1589?)

池田輝政との間にもうけた子女

  • 千姫(茶々姫、1596)
  • 池田忠継(1599)
  • 池田忠雄(1602)
  • 池田輝澄(1604)
  • 池田政綱(1605)
  • 振姫(1607)
  • 池田輝興(1611)

 末子となる池田輝興が慶長16年(1611)生まれですので、督姫の生年を永禄説で考えると、46歳という高齢出産になってしまいます。一方、天正説の場合、2人の子どもを17歳までに産んでいると推測されますが、これは当時ならありえる状況です。

 例えば前田利家の正室・まつは、11歳・15歳・16歳で3人目まで出産していますので、高齢出産より現実的です。


最初の婚姻:北条氏直

 督姫の本名は「普宇姫」と伝わっています。黒田基樹氏は督姫の名は幼名ではないかと指摘しています。

 彼女の最初の婚姻相手は、天正10年(1582)の本能寺の変が影響しています。信濃・甲斐・上野の旧武田領は織田家が支配していましたが、信長の死が知れ渡ると、その支配が揺るいで大混乱となりました。

 勢力的に空白地帯となった旧武田領には、混乱に乗じて北条・上杉・徳川が領土拡大をねらって出兵、特に徳川と北条の勢力争いは長引いて熾烈を極めました。いわゆる天正壬午の乱(1582)ですが、この乱は甲斐黒駒(山梨県笛吹市)の合戦で家康側が勝利したことや、佐竹氏の出陣や織田信雄の協力など、外交的に家康が有利に進めたことで最終的に和睦に至ります。

天正壬午の乱イメージ。かつての武田領(甲斐・信濃・上野)が奪い合いとなった。
天正壬午の乱イメージ。かつての武田領(甲斐・信濃・上野)が奪い合いとなった。

 10月29日に徳川・北条の境界が画定され、この際に督姫が北条氏直に嫁ぐことが決まりました。そして翌天正11年(1583)8月15日に督姫は小田原に嫁ぎました。

 『三田郷虎朱印状』によれば、本来は7月22日の予定でしたが、台風による出発の遅れもあって翌月となりました。婚儀は無事に行なわれ、徳川と北条の婚姻同盟へとつながったのです。

 督姫9歳、北条氏直21歳という歳の差婚でした。

 督姫は氏直との間に2人の子を産んだとされています。1人は『北条系図』にのみ、名が見られる摩尼珠院殿妙勝童女であり、文禄2年(1593)に成人前に亡くなっています。もう1人が宝珠院殿華庵宗春大禅定尼であり、彼女は成人していますが慶長7年(1602)に亡くなっています。

 宝珠院殿は池田輝政の嫡男・池田利隆との婚姻記録があり、成人しています。2人とも氏直の子ですので氏直が死ぬ天正19年(1591)前後には誕生していると考えられます。年齢を考えると宝珠院殿は天正17年(1589)前後には生まれていたと考えられます。

 しかし、天正18年(1590)には豊臣政権による小田原征伐が起こり、秀吉に敗れた北条氏直は北条氏当主として紀伊高野山への蟄居が命じられました。督姫は家康の保護の下で小田原滞在となり、氏直は謹慎生活となります。

 ただし、督姫はこの時点で離縁していません。おそらくこの段階で後の摩尼珠院を妊娠していることが発覚したのではないかと推測されます。氏直は翌天正19年(1591)2月19日に家康や富田一白の赦免活動で1万石の大名としての復帰が決まります。これを受けて督姫も2月10日に大坂へ出発し、2月27日に大坂で氏直と再会しています。

 督姫がこのときに離縁しなかった理由は2つ推測されます。1つは氏直の子どもを懐妊していた場合です。この場合、離縁しなければ家康の下で名前だけでも北条宗家の家督を継ぐ子を残せるので、秀吉や家康が離縁させなかったと考えられます。

 もう1つは督姫が自分で離縁を拒否した場合です。この場合は督姫という女性が愛情深い人だったことになります。実際、夫の赦免が決まるとすぐに大坂に出向いていることから、督姫が氏直と良好な関係だったことは間違いないでしょう。

 どちらにせよ、督姫は氏直との生活を継続します。しかし夫の氏直は10月29日までに疱瘡にかかり、11月4日に病死してしまいます。氏直は家康との関係から後に伯耆一国を与えられる予定だったと『異本小田原記』には記されています。氏直の大名復帰は事前交渉で決まっていたため、復帰が決まった2月19日より前に督姫は小田原を出発したのでしょう。

 とにかく、秀吉にとっても予想外だった氏直の死により、督姫は未亡人となってしまうのです。

2度目の婚姻:池田輝政

 娘とともに残された督姫にさらなる悲劇が襲います。まだ幼かった摩尼珠院の死です。文禄2年(1593)に娘が死亡し、この頃には家康によって徳川に引き取られ、実家に戻っています。この際、北条氏の宝物などは督姫とともに引き継がれています。

 黒田基樹氏は『戦国大名・北条氏直』の中で「北条との婚姻関係については断絶」としていますが、北条氏の宝物が督姫の元にあったことを考えると定かではありません。

 若くして未亡人となった督姫に対し、秀吉は池田輝政との婚姻を斡旋しました。池田輝政は織田信長の乳兄弟である池田恒興の嫡男で、三河吉田城主15万石を務めていました。家康が関東移封になった後の三河国を治める領主であり、督姫の母の生まれ故郷一帯の新しい領主でもあります。そのため、池田氏の三河支配を補佐する意味でこの婚姻が行われたとみていいでしょう。

 文禄3年(1594)12月27日、督姫は池田輝政に嫁ぎました。そして慶長元年(1596)に千姫が誕生、慶長4年(1599)には一人目の男子・忠継が誕生しています。

 こうした血縁から池田氏は関ヶ原の合戦で東軍として家康を支え、毛利軍の抑えを務めています。関ケ原後に徳川秀忠が外様大名で最初に屋敷を訪問した相手が輝政だったと言われ、その後、播磨姫路藩52万石を任されることになりました。これは西日本では筑前の黒田長政、尾張の松平忠吉、肥後の加藤清正に並ぶ石高です。外様ではあるものの、大坂の近辺であり実質身内として配置されたことがうかがえます。

 督姫はこの国替えに従って姫路に移りました。慶長7年(1602)に忠雄が、慶長9年(1604)に輝澄が生まれています。この年の4月2日に督姫は駿府に3人の子どもを連れて家康と面会しています。その後、慶長10年(1605)に政綱が、慶長12年(1607)に振姫が誕生します。末子の輝興が慶長16年(1611)に生まれるまで、かなりの高頻度で督姫は子どもを産み続けました。

督姫の最後と子孫

 督姫は慶長7年(1602)に家康を訪ねた際、母親である西郡局のために息子の輝澄を宗派替えさせています。

 忠継は慶長8年(1603)に小早川秀秋の死で空いた岡山藩28万石の大名に命じられますが、慶長19年(1615)に亡くなったため、弟の忠雄が後を継いでいます。この忠継の死の19日前、2月4日に督姫は亡くなりました。家康と会うために二条城に来ていた際、北条氏直と同じ疱瘡に罹ったためと伝わっています。

 法名は「良正院殿隆譽智光慶安大禅定尼」。家康は知恩院で督姫の葬儀を行い、秀忠の許可の上で知恩院の寺域を拡大して弔うための伽藍を建立しました。

 その後、督姫の子孫は江戸幕府を支える柱石となっていきました。輝政との最初の子である千姫は丹後宮津藩主である京極高広に嫁ぎました。その子孫は伊予松山藩の松平氏などに嫁ぎ、その子孫が3代目薩摩藩主の島津綱久に嫁ぎ島津氏に家康の血を加える役割を果たしました。振姫は仙台藩主伊達政宗の子・伊達忠宗に嫁ぎ、その後の仙台藩に受け継がれています。

 忠雄は31歳で死去し、その子である光仲が鳥取藩主へ移封となっています。光仲の子は鳥取藩を代々継いで明治維新を迎えました。光仲の別の男子は摂津三田藩の九鬼氏に養子入りしており、西日本の広い範囲にその血縁が広がっていきました。また、忠雄の長男の子孫には勧修寺家へ嫁入りし、仁孝天皇の母である勧修寺婧子に繋がっています。江戸幕府で家康の血を様々な大名家そして公家・皇族にもたらしたのは、間違いなく督姫の功績と言えるでしょう。

おわりに

 母親のために息子を1人宗派替えさせたり、北条氏直が受け継いだ宝物を大事にしたりしていた督姫。その行動からは、政略結婚の中でも良好な夫婦関係を築き、家族を大事にする心を持ち続けた女性という姿が思い浮かびます。

 督姫の子孫は江戸幕府250年の泰平に間違いなく大きな貢献をしました。徳川を支えた女性の1人として、評価されるべきでしょう。

 このとき家康は大坂の陣後で二の丸・三の丸埋め立ての状況把握も兼ねて二条城に滞在していました。葬儀を自ら取り仕切ったのは異例と言えます。池田氏も督姫の喪に服し、大坂夏の陣には参戦していません。宗家筋の姫路藩も、実子の岡山藩も同様でした。本来動員する兵を減らしても、督姫の家族がこの時期に血を流すのを避けたのかもしれません。


【主な参考文献】
  • 『蒲郡市史』(2006年)
  • 冠賢一「戦国期日蓮教団の展開 ー遠州鷲津本興寺と鵜殿氏ー」「印度學佛教學研究第22巻第2号」(1974年)
  • 池田冠山『池田氏家譜集成』
  • 黒田基樹『戦国大名・北条氏直』
  • 堀田正敦『寛政重脩諸家譜』(国立国会図書館デジタルアーカイブ)

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  この記事を書いた人
つまみライチ さん
大学では日本史学を専攻。中世史(特に鎌倉末期から室町時代末期)で卒業論文を執筆。 その後教員をしながら技術史(近代~戦後医学史、産業革命史、世界大戦期までの兵器史、戦後コンピューター開発史、戦後日本の品種改良史)を調査し、創作活動などで生かしています。

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