「大道寺政繁」北条氏の重臣として内政・軍事両面で活躍も、最期は処刑された悲運の将
- 2019/06/10
北条家の家臣として一般に広く知られる人物は多くありませんが、その中で比較的著名なのは大道寺政繁でしょう。政繁は滅亡へと向かう北条家の家中で存在感を発揮しましたが、その最期は悲劇的なものとなってしまいました。
この記事では、あまり知られていない政繁の生涯について史料をもとに分析し、彼の生き様に迫っていきます。
この記事では、あまり知られていない政繁の生涯について史料をもとに分析し、彼の生き様に迫っていきます。
北条氏の名門・大道寺家の出身
大道寺政繁は、天文2年(1533年)に伊勢宗瑞(北条早雲)の存命中に北条家家臣として仕え始めた最古参の名門・大道寺家に生まれました。『寛政譜』によれば政繁の父親は大道寺資親であるとされ、彼の嫡男としてある程度の地位を約束されていたと考えられます。
『甲陽軍鑑』にみえる川越夜戦での政繁
幼少期から30代ごろに家督を継承するまでの政繁については詳しいことが分かっていませんが、『甲陽軍鑑』の中には次のような逸話が紹介されています。「14歳の政繁は川越夜戦に参戦し、上杉憲政の家臣・本間近江守の一騎討ちに勝利するという武功を挙げました。近江守は政繁に自身の馬印である「九つ提灯」を政繁に託して撃たれたといわれており、これは馬印の発祥になったといわれています。」
『甲陽軍鑑』は武田氏の事績を描き出した軍記物で、他家の事情については正確さを欠く部分が特に多いことは否めません。それでも、政繁の武勇は他国にも聞こえていたと考えることは不可能ではなく、勇猛な将として若くから噂されていたのかもしれません。
歴史に登場するのは家督継承後。
政繁の名が歴史上に現れるのは、彼の父であり大道寺家当主の資親から家督を継承した後のことです。ハッキリとした時期は分かっていないのですが、資親が最後に史料に登場した永禄12年(1569年)から政繁が史料に初めて登場する元亀元年(1570年)の間に家督を継承したと考えられています。
政繁は父が務めていた鎌倉代官(家督継承直後から数年間なぜか代官の職に就いていない、原因は不明)と河越城主の任をそのまま引き継ぎ、武将としては北条氏の主要な戦に参加するとともに、領内の統治や寺社との橋渡し役を務めていたことが史料から確認できます。
家老筆頭の立場で活躍
彼が着々と地位を固めていく一方、北条家は天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれた後まもなく、「天正壬午の乱」と呼ばれる戦を引き起こします。この乱は、信長の死により、織田領となってまだ日の浅かった甲斐国・信濃国・上野国(旧武田領)の三国が混乱に陥ると、近隣の大大名である北条・上杉・徳川が争奪戦を繰り広げていく展開となります。
この争いで西上野へ入った北条軍は、まずは「神流川の戦い」で織田重臣の滝川一益を撃破。その後は碓氷峠から甲斐へ、さらに信濃へも進軍しており、政繁も乱の主要な戦に従軍しています。
信濃・小諸城の城代に
『宇津木文書』によれば、この乱で占領した信濃国・小諸城城代に任命されます。小諸城は激戦地と考えられており、政繁は武勇に優れた将であったのでしょう。実際、戦そのものは北条家にとって優位な形で進行していましたが、真田氏など北条に従属していた国衆らが徳川に寝返ったことから終盤には形勢が逆転。これにより、信濃国佐久郡の情勢も北条方の劣勢となり、小諸城は完全に孤立する形になりますが、政繁は降伏せずに最後まで城を守り抜いています。
結局、同年10月に徳川方の勢力が強まってきたタイミングで北条と徳川が姻戚関係を結ぶことで講和、終結となりました。
講和の条件として、領土分けは徳川が信濃国・甲斐国、北条が上野国になりましたが、政繁はその後も小諸城に在城して抵抗を続け、天正11年(1583年)4月ごろにようやく城を明け渡して上野国に退去したようです。
上野・松井田城を任される
また、この時期の政繁は同格の名門・松田氏の当主松田憲秀らと並び、家老筆頭の存在として家中で大きな存在感を放っていたようです。『後閑文書』によると、天正15年(1587年)ごろには松井田城に在城していたようで、松井田城が地理的に重要な位置にあることから北条家の門番を任されていたといっても過言ではないでしょう。
主戦派とみなされ、秀吉から切腹を命じられる
信長亡き後の後継者争いを秀吉が制したことで、天下の趨勢は信長の天下統一事業を引き継いだ豊臣秀吉に傾き、北条も豊臣に服属することを余儀なくされていきます。しかし、天正壬午の乱の和睦条件では上野国は北条のものとなっていたものの、実際は上野沼田領を真田氏が押さえていたため、大名同士の私戦を好まない秀吉の意向を無視して彼らは戦いを継続しました。
この沼田地区の帰属が明確になっていなかったため、天正17年(1589年)に秀吉が介入して沼田領の分割を裁定します。しかし、その直後に真田方の名胡桃城を北条家臣が奪い取る事件が勃発。『真田文書』によれば裁定を無視するという挑発行為に激怒した秀吉は、「許しがたい背信」であるとして開戦の用意を進めます。
北条に比較的近かった徳川家も同様に開戦の準備を進め、翌天正18年(1590年)には小田原征伐が開始されました。
当時、松井田城代となっていた政繁は、中山道を通ってくるであろう豊臣軍に対抗するため、同城での籠城戦に臨みました。しかしながら、圧倒的な兵力差から降伏を余儀なくされています。その後は豊臣軍の道案内をさせられ、北条氏の拠点攻略に貢献する形でかつて仕えていた北条家への背信行為を余儀なくされました。
このような政繁の「協力」も効果的に作用したのか、かつて隆盛を誇った北条家は滅亡の憂き目に遭ってしまいます。
北条家こそ滅亡したものの、いったんは助命を許された政繁。しかしながら、豊臣秀吉朱印状によると「所行にて表裏の段」として開戦の責任を咎められ、北条氏政・北条氏照・松田憲秀と並び、切腹を命じられ、最期は江戸城下の桜田で切腹し果てました。
大道寺一族のその後
なお、戦後には家康の懇願もあって政繁の子供たちは助命され、嫡男直繁は「神妙である」という理由によって助命された北条五代目の北条氏直に付き従い、高野山にて謹慎生活に従事しました。氏直は死の直前にふたたび大名へと返り咲きますが、彼の死去後、直繁は家康に付き従うようになります。
直繁をはじめとする政繁の子供らは江戸時代にも名前を確認することができ、政繁の養子であった直英隼人という人物から続く「隼人大道寺氏」は弘前藩の家老として代々要職を務めています。
【主な参考文献】
- 下山治久『後北条氏家臣団人名事典』東京堂出版、2006年。
- 黒田基樹『北条氏康の家臣団:戦国「関東王国」を支えた一門・家老たち』洋泉社、2018年。
- 黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年。
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄