「松平信康」家康の嫡男が切腹を強いられた意外なワケとは
- 2021/10/11
徳川家康の嫡男といえば、松平信康(まつだいら のぶやす)です。しかし、江戸時代に家康の後継者として2代目将軍に就任したのは三男(しかも側室)の徳川秀忠でした。本来後継者となるはずの信康がそうならなかったのは、父親の命令で切腹させられ、すでにこの世を去っていたからです。
いくら戦国乱世とはいえ、家康はなぜ信康に切腹を命じたのでしょうか。そこには同盟者である織田信長の影がちらつきます。今回はそんな享年21でこの世を去った松平信康の生涯についてお伝えしていきます。
いくら戦国乱世とはいえ、家康はなぜ信康に切腹を命じたのでしょうか。そこには同盟者である織田信長の影がちらつきます。今回はそんな享年21でこの世を去った松平信康の生涯についてお伝えしていきます。
家康の嫡男として誕生
今川氏に人質として預けられる
信康が誕生したのは、父の徳川家康がまだ松平元康と名乗り、駿河国の戦国大名である今川義元に仕えていた頃です。永禄2年(1559)、家康の嫡男として駿府で生まれています。幼名は家康と同じ竹千代です。母親は今川一門の関口親永(瀬名義広)の娘・築山殿です。義元の姪にあたります。信康もまた今川一門のひとりということになりますが、実際は人質同然で駿府に預けられていました。
そんな中、永禄3年(1560に桶狭間の戦いが起こり、状況が一変します。今川氏当主である義元が信長に討ち取られ、さらにこれを好機として家康が三河国の岡崎城に入って独立。しかもこれまで敵として衝突していた信長と清洲同盟を結び、今川氏と敵対関係となりました。
家康は妻子である築山殿や信康を駿府に残したまま、今川氏と断交し、信康は人質として殺されても仕方のない状況でした。しかし永禄6年(1562)に三河国上ノ郷城を攻略した際に、城主の鵜殿長照は討死、その子である鵜殿氏長と鵜殿氏次を捕虜とすることに成功しました。そして家康は妻子とこの氏長・氏次兄弟の人質交換を今川氏に提案し、信康らを救出したのです。
信長の娘を正室に迎える
今川氏と敵対し、信長と手を結んだ家康は、その絆をさらに深めるべく、永禄6年(1563)に信康と信長の娘である徳姫の婚約を進めました。この時点で信康も徳姫もわずか5歳の幼子でしたので、まさに政略結婚です。実際の婚儀は、永禄10年(1567)に行われましたが、それでも二人の年齢はまだ9歳でした。信康と徳姫は共に岡崎城に入ります。信康は同年7月に元服し、信長から「信」の偏諱を与えられ、家康からは「康」の偏諱を与えられて、信康と名乗ることになりました。そして元亀元年(1570)より正式な岡崎城城主に任ぜられます。
武勇に優れていた信康
信康の武勇伝
天正元年(1573)には初陣を果たしています。どうやら天性の武辺者だったようで、日常から乗馬や鷹狩りを好み、話も合戦に関するものばかりだったと記録されています。武勇に優れていたことは間違いないようで、天正3年(1575)の長篠の戦いでは、大将のひとりを務めました。小山城攻めでは武田勝頼が迎撃のために大井川を渡河してきましたが、信康は自ら希望して殿を務め、武田勢を牽制しながら撤退することに成功しています。家康もこの信康の活躍を大いに褒め称え、「我が子ながら、天晴れな武者ぶりかな」と賞賛したといいます。
天正5年(1577)にも武田勢が遠江国の横須賀に侵攻してきており、家康と共に後詰として出陣しました。さらに勝頼が小山城に入ると、牽制のため信康は懸川城に入っています。信康の機敏な行動が武田勢に圧力をかけていたために軍事衝突までは発展していません。
天正6年(1578)にも家康と小山城を攻めると共に、遠江国に侵攻してくる武田勢に対し、信康は馬伏塚に出陣してこの牽制を行っています。軍事面において信康は家康の期待にしっかりと応えていたと言えるでしょう。
粗暴な性格だったのか?
一方で信康の粗暴な性格を伝える記録も残っています。気性が激しく、日頃から乱暴だったようです。『当代記』には家臣に対して非道な振る舞いがあり、家康や信長をも軽んじたと記されています。家康も健康に育ってくれればいいという思いが強く、気づいた時には教え諭そうとしても親を敬うようにはならなかったという記録も見られます。
勇猛であろうとするあまりにこのような素行になってしまったのか、それとも後に切腹させる名目として脚色されたものなのか、はっきりとしません。
父家康の命令で切腹
信長による命令だったのか?
正室の徳姫と信康が不仲だったことはかなり信憑性が高いようです。理由としては徳姫が女子ばかりを産み、男子を産まなかったことが挙げられています。そのことで徳姫は父親である信長に対して信康への不満をつづった12カ条に及ぶ書状を家康の重臣である酒井忠次に託しました。『三河物語』『松平記』にその書状の内容が記されていますが、不仲であることや信康の素行が乱暴であることの他に、義母である築山殿が武田氏に内通しているという見逃すことのできない重大な項目も含まれていました。
築山殿の父親である関口親永は、家康が今川氏を裏切り、織田氏についてことで切腹させれており、築山殿は家康を憎んでいたとされています。そのために武田氏に内通しているとの話になったのでしょう。
信長から事実確認を求められた忠次は、信康を庇うことをせずに10カ条まですべて事実だと認めました。そこで信長は信康に切腹するように命じ、その報告を聞いた家康は悩んだ末に天正7年(1579)に自害するよう信康に命じたのです。
確かに岡崎城が武田勢に寝返れば家康も信長も窮地に立たされます。武田氏への内通が真実であれば、この処置もうなずけますが、どこまで史実なのかははっきりとしていません。
そのため、信長が家康の忠誠を試そうとしたという説や、信康が信長の嫡男である信忠よりも器量が上だったため、将来を見越して殺害を促したという説もあります。果たして本当に信長は家康の嫡男を自害するように指示したのでしょうか?
実は家中の派閥抗争だった?
近年になって信長指示説を覆す新しい説が提唱されています。それは、酒井忠次ら「浜松衆」と、信康が率いる「岡崎衆」の確執です。浜松衆は家康の勢力拡大に貢献して発言力を強めていましたが、後詰や後方支援の役割を任されていた岡崎衆には活躍の場がなかなかなかったようです。そのため、岡崎衆によるクーデター計画のようなものが画策されていたとも考えられます。
家康の信康への対応は以下の通りです。
- 8月3日:信康、岡崎城に出向いてきた家康と対面する。
- 4日:信康、岡崎城から大浜城(愛知県碧南市)に移される。
- 9日:信康、大浜城から堀江城に移される。
- 10日:家康が岡崎城に西三河衆を招集し、信康と内通しない旨の起請文を提出させる。
- 29日:築山殿、二俣城への護送中殺害される。
- 時期不明:信康、二俣城に移る。
- 9月15日:二俣城で信康が自害する。
『当代記』や、信長の家臣である堀秀政宛ての家康書状にも、信長が信康を自害させるよう指示したという記載はありません。むしろ家康から忠次を通じて、信長に相談を持ちかけている旨が記されています。
忠次はこのような事件があった後も重く用いられていますので、やはり、忠次が信長に弁解しなかったことが問題視されてはいなかったと考えられます。信康の自害は家康が望んだ可能性もあるということです。
おわりに
仮に信康の素行に問題があったとしても満20歳の若者です。まだまだ変われるチャンスはあったでしょうが、その余裕がないほど信康は追い詰められていた状況だったのかもしれません。もしかすると実母と岡崎衆から新当主として担がれ、独立して武田氏と結び、家康と信長を倒す流れができあがっていたかもしれないのです。家康は正室と嫡男を殺害するという荒治療でこの局面を乗り切りました。はたして家康が信康を生かしていれば、その後の歴史はどう変わったのでしょうか。
【主な参考文献】
- 北島正元編『徳川家康のすべて』(新人物往来社、1983年)
- 二木謙一『徳川家康』(筑摩書房、1998年)
- 本多隆成 『定本 徳川家康』(吉川弘文館、2010年)
- 小和田哲男『詳細図説 家康記』(新人物往来社、2010年)
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