最上大業物「長船兼光」!戦国武将に大人気の一大ブランド!
- 2019/09/13
江戸時代、19世紀初めごろに刀剣の試し切りを生業とする「山田浅右衛門家」によって、切れ味を中心とした日本刀のランキングが行われました。著述したのは、五代目山田浅右衛門の吉睦。「業物」「良業物」「大業物」、そして「最上大業物」の四段階に分類され、最高位である最上大業物の刀工にはたったの14工が列せられたのみとなっています。その中の一角に「長船兼光(おさふねかねみつ)」の名があります。言わずと知れた一大ブランド、「オサフネ」といえば日本刀の代名詞のひとつとも称される、有名刀工集団でもあります。
実はこの長船派、14工しかない最上大業物のうち3工が選ばれており、同一刀工集団では最多のランクインとなっています。「兼光」という銘の刀工には、歴史上4工が存在していると考えられていますが、そのうち南北朝時代の延文年間(1356~61)頃に活躍した、通称「延文兼光」が最上大業物とされています。
そんな兼光とは、どのような刀工だったのでしょうか。その概要を見てみましょう!
実はこの長船派、14工しかない最上大業物のうち3工が選ばれており、同一刀工集団では最多のランクインとなっています。「兼光」という銘の刀工には、歴史上4工が存在していると考えられていますが、そのうち南北朝時代の延文年間(1356~61)頃に活躍した、通称「延文兼光」が最上大業物とされています。
そんな兼光とは、どのような刀工だったのでしょうか。その概要を見てみましょう!
兼光とは
延文の長船兼光は、名工として知られその作品が現在国宝に指定されていることでも有名な、「長船景光(おさふねかげみつ)」の子です。同一時代の兼光には作風に大きな幅があることから、従来は初代・二代と異なる刀工が存在したと考えられていましたが、現在では同一人物による作刀スタイルの変化という説が有力です。
刀工の五大源流ともいえる「五箇伝」のひとつ、「備前伝」の一派でありながら、兼光作は相模の「相州伝」の影響を受けたことから「相伝備前」とも呼ばれます。
相州伝の伝説的名工「岡崎五郎入道正宗」の高弟である「正宗十哲」の一人に数えられることがありますが、これは直接的な弟子というわけではなくその影響を受けた刀工、といった意味合いと考えられています。
兼光の特徴
兼光の作品は、南北朝時代という実戦用の刀剣が求められた時代背景もあり、長寸の大太刀といった豪壮なものが目立ちます。初期には父・景光の作風によく似た質実な刀が多かったものの、次第に華やかで独特な刃文を生み出すようになります。また、切れ味本位でのランキングである最上大業物の名に恥じず、その切断力の凄まじさが伝わっています。
特に鎧兜を断ち割ったというエピソードが有名で、足利尊氏の命で製作した刀が兜割りに成功し、褒美として広大な屋敷と城を拝領したといいます。
まさしく、作刀によって立身出世を果たした匠といえるでしょう。
長船兼光の代表作5振り
以下に長曽祢虎徹のなかでも有名なものを5振り、ご紹介したいと思います。甲割り兼光(かぶとわりかねみつ)
先述の足利尊氏注文刀に付けられた号です。その名の通り、兜と鎧二領を切断したことから呼ばれたもので、兼光の凄まじい切れ味を物語っています。本当に鎧兜のような堅いものを切断できたのかという疑問もありますが、古来、刀と鎧は「矛と楯」のような関係のものとして発達してきました。
つまり、鎧は刀で切られないように、刀は鎧すら切れるように、ということを目標に工夫・研究されてきたため、性能的には史実であっても不思議ではないと考えられます。
なお、記録に残る兜割りの成功例は、直心影流の剣客・榊原健吉による明治19年(1886)の切り込みが知られています。
一国兼光(いっこくかねみつ)
土佐山内家の二代目・忠義が、二代将軍・徳川秀忠の遺品として三代家光より拝領した刀。紀州徳川家初代・頼宣(よりのぶ)が所望したため、藤堂高虎が仲介しましたが忠義はこれを断ります。
「もし、将軍家が所望されたらどうか」という高虎の問いに、「土佐一国と引き替えても手放さない」
と回答したというエピソードに由来する号です。
平成30年(2018)、山内家から高知県に寄贈されました。
水神切兼光(すいじんぎりかねみつ)
愛刀家として知られる上杉謙信の品から、景勝が選んだ「三十五腰」のうちの一振り。上杉家の名家老として名高い、直江兼続の愛刀として知られています。「水神切」という号は、兼続がこの刀で荒ぶる水の精を切り伏せ、洪水を治めたという伝説にちなんだものです。内政や領民生活の向上に腐心した、兼続らしいエピソードといえるでしょう。
念仏刀(ねんぶつとう)
浅井氏の家臣であった「百々内蔵助(どどくらのすけ)」の刀。罪人をこの刀で切ったところ、あまりの切れ味の鋭さに傷口がそのまま吸い付いてしまい、罪人が高らかに念仏を唱えた後、ようやく両断されたという伝説にちなむ号です。鋭利な切断力を表す類型的なエピソードですが、同様の伝承は枚挙に暇がないため、これに近いような状態が実際にあったのかもしれません。
竹俣兼光(たけのまたかねみつ)
越後の竹俣三河守という武将の佩刀でしたが、やがて上杉謙信の愛刀となったと伝えられます。謙信は川中島の合戦でこの刀を振るい、武田方の鉄砲足軽を火縄銃ごと切り伏せたという伝説から「鉄砲切り兼光」の名でも知られています。
刀で鉄を切断するという、驚異的な切れ味を示すエピソードですが、発砲によって高熱を帯び、軟化した銃身であれば可能だったのではという説もあります。
おわりに
備前刀といえば多くの戦国武将が欲し、戦場で遺憾なくその力を発揮した乱世の刀として知られています。その能力は太平の江戸時代においても評価され、最上大業物として長くその名が記憶されることとなったのでした。【参考文献】
- 『別冊歴史読本 歴史図鑑シリーズ 日本名刀大図鑑』本間 順治監修・佐藤 寒山編著・加島 進協力 1996 新人物往来社
- 『原寸大で鑑賞する 伝説の日本刀』別冊宝島編集部 2018 宝島社
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