織田信長の性格と思想 ~恐怖だけじゃなく意外な一面も。

みなさんは織田信長といえばどのような性格をイメージしますか?おそらく世間一般に浸透しているのは「短気」「せっかち」「プライドが高い」「厳格」「残虐」「執念深い」といったところでしょう。


史料から読み解いても、これらのイメージはあまり間違っていないと思いますが、その一方でちょっと意外な一面もいくつかあったようです。


当時のイエズス会宣教師がみた信長とは?

戦国時代の日本にキリスト教の布教活動をしたイエズス会宣教師・ルイスフロイスは、その著書『日本史』で信長に関する多くのことに触れています。


『日本史』は、フロイスが感じた生の信長像が記されている貴重な一次史料です。その『日本史』の中で、信長の人物像に触れている内容を抜粋、列挙してみましょう。


  • 睡眠時間は短く、早朝に起床した。
  • 酒は飲まず、食事は控えめにした。
  • 自邸において極めて清潔だった。
  • 極度に戦を好み、軍事的鍛錬にいそしみ、名誉に富み、正義において厳格だった。
  • とても性急で激昂はするが、平素はそうでもなかった。
  • 自分のあらゆる事にとても丹念に仕上げた。
  • 貪欲ではなく、決断を秘めていて戦術には極めて老練だった。
  • 対談で長引くことやだらだらした前置きを嫌った。
  • 戦運が悪くても心持ちが広く、忍耐強かった。
  • 困難な企てに着手するときは極めて大胆不敵だった。
  • 人の扱いには極めて率直であり、自らの見解には尊大だった。
  • 自分への侮辱は許さず、懲罰せずにはいられなかった。
  • 家臣の忠告にはほぼ、あるいは全く従わず、一同から畏敬されていた。
  • いくつかの事では人情味と慈愛を示した。
  • 身分の低い家来とも親しく話をした。
  • 神や仏のすべて礼拝や尊崇、占いや迷信的慣習を軽蔑した。
  • 将軍や大名など、日本のすべての王候(=土地や人民を支配する有力者)を軽蔑した。
  • 王候に対してさえも尊大(=つまりは上から目線)だった。
出典:フロイス『日本史』

どうでしょうか。上記を想像すると、イキナリ恐ろしすぎる信長像が浮かび上がってきますよね。


フロイスはこのように信長の人間性を感じとっているワケであり、私たちが思う信長像と大体一致するようにも思えます。ただ、 「いくつかの事では人情味と慈愛を示した。」という内容だけは意外な側面かなと。


次はもう少し具体的に信長像がイメージできるよう、信長の行動やエピソードからもアプローチしてみましょう。


尊大、厳格、短気、せっかち・・

絶対君主だった信長

以下はフロイスが岐阜城で信長とはじめて面会したときの様子です。


  • 信長が手でちょっと合図をするだけでも、家臣らはきわめて凶暴な獅子の前から逃れるように、重なりあうようにしてただちに消え去ったといい、そして信長が内から誰か1人を呼んだだけでも、外で100名がきわめて抑揚のある声で返事をした。
  • 信長の報告を伝達するものは、それが徒歩であろうと馬であろうと、飛ぶか火花が散るように行かねばならない、と言っても差し支えがない。
  • 家中や被官たちは、信長の顔を見て話す者はおらず、話をするものは顔を地につけて対応した。
出典:フロイス『日本史』

これも衝撃的な内容です。信長の命令は絶対的で即対応しなければならなかったのでしょう。家臣たちは信長の前では恐怖に支配されていたのでしょうか…。


信長は天正元(1573)年の一乗谷城の戦いの際には、家臣らに朝倉軍を逃がさぬように何度も厳命しましたが、朝倉軍の撤退時に先陣の家臣たちが信長より遅れて追撃したため、彼らを痛烈に叱責しています。


このとき重臣の佐久間信盛が「そうは言っても我らほどの家臣はいないでしょう?」という旨の発言をし、これに信長が激怒したという話は有名です。


天正3(1575)年には、柴田勝家に越前国を与えていますが、『信長公記』によれば、このとき信長は「自分を尊敬し、自分に足を向けない心構えでいろ!」といった内容のことまで言ったようです。


まさに信長のプライドの高さと厳格で尊大なところがうかがえますね。同時に「せっかちで短気」といった側面も想像できるのではないでしょうか。


念の入れよう

信長は甲斐の武田信玄と同盟を結んだ際に、その関係を強化するため、嫡男信忠と信玄6女の松姫との縁談を申し出て永禄10(1567)年に婚姻同盟を成立させています。


戦国期のエピソード集で有名な『名将言行録』では、この縁談のために信長は丹念にも武田家にたびたび使者を送り、贈り物も念入りにして信玄の感心を引いたことで縁談が整った、といいます。


無駄な時間は使わない

信長は永禄11(1568)年に上洛を果たすと、翌年の正月から4月にかけて在京し、将軍義昭の邸宅(室町第)の普請工事を現場で陣頭指揮していました。


このとき公卿の山科言継が後奈良帝の法要の資金援助を頼むために信長を訪ねますが、山の麓にてわずかな立ち話で終わってしまったといいます。(『兼見卿記』『言継卿記』)


以後も信長はたびたび上洛して、そのたびに公家衆が大挙して山科や北白川口へ出迎えていたとか。そんな状況でも信長は公家たちに会わずにそそくさと宿館に入っていたようです。フロイス『日本史』によれば、「なんらか用事のあるものは信長が城から出てくるのを途中で待ち受けた」そう。


このように信長は徹底的な合理主義者だったことがうかがえます。無駄に話をして時間を費やすことを嫌い、用件のみを手短に話して早急に意思決定を行ないたい気質ということですね。


家臣の忠告は聞かず

永禄3(1560)年の桶狭間の戦いのとき、織田軍は兵力差で圧倒的に不利な状況でした。


信長は家臣たちから決戦を避けるように進言されますが、これを退けて決戦に挑んでいます。決戦前に軍議を開いて戦略などを重臣らに話すようなことは一切ありませんでした。

家臣の忠告には従わず、戦略において自らの決断を秘めていたのです。


怠慢は許さない

『信長公記』によると、天正6(1578)年に尾張国のお弓衆の邸宅から出火して火事が起きたとき、信長は妻子を近江国の安土城に移転させていなかった者たちの邸宅を焼き払い、さらに罰として安土城下に新道を築くための工事作業に従事させたといいます。


また、これは有名な話ですが、天正8(1580)年に功績をしばらくあげなかった宿老の佐久間信盛・信栄父子、さらには宿老の林通勝・安藤守就父子・丹羽氏勝らをも追放しています。


天正9(1581)年には、自分の留守中に安土城を出て羽根をのばしていた女房衆に対して怒り、これを怠慢だとして処罰しています。


とにかく信長は怠け者に厳しかったようですね。



神も仏も信じないという思想

フロイスは、信長が神や仏に対して異常な程の憎悪を抱いていたのは、信長の生涯をみれば一目瞭然だと言っています。そうした信長の思想を示す出来事をいくつか挙げていきます。


まずは父信秀の死の間際にまつわる話です。

父の信秀が瀕死のとき、信長は仏の僧侶に祈祷を願い、僧侶たちは信秀の病気が回復すると保証したが、信秀は数日後に亡くなった。これに信長は僧侶たちを監禁し、彼らのうちの数人を射殺したという。

出典:フロイス『日本史』

信秀が亡くなったとき、信長は19~20歳頃ですが、上記の出来事をきっかけにして神や仏を信じなくなったのか、それとも元々軽視していたのかは、よくわかっていません。それにしても恐ろしい話です…。


次は二条城の普請工事のときの信長です。

信長が上洛して将軍義昭を誕生させた翌年の永禄12年(1569年)には、御所として二条城を築城したが、このとき信長は、建築用の石が不足していたため、多数の石像を倒して工事現場まで運ばせた。そして、京の民たちはこれらの石像に畏敬の念を抱いていたため、恐れおののいたという。

出典:フロイス『日本史』

信長にとって、石像はただの石ころと同じ、ということですね。


仏教勢力の弾圧

元亀2(1571)年比叡山焼き討ちは誰もが知るところ。比叡山延暦寺は日本仏教の聖地であり、それが焼き討ちされたというのは、まさに神や仏の類を一切あがめない信長ならではの出来事でした。


続いて天正元(1573)年の百済寺焼き討ち。これは百済寺が信長と敵対関係にある近江の六角氏や一向一揆に加担しているとのことを聞き及んでの行動だといい、寺はことごとく灰となって目も当てられない有様だったといいます。


ちなみに百済寺は聖徳太子が開基とされ、信長に焼き討ちされるまで700年もの歴史があったとか。


天正7(1579)年に信長の命で行なわれた法華宗と浄土宗の宗論では、これに乗じて挑戦的な姿勢をとる法華宗を弾圧しています。


自らの神格化を望む

フロイスによれば、信長は天下統一が目前にせまってくると、傲慢さと尊大さがエスカレートし、神的な存在として自分を礼拝するように言い出したといいます。

こうした傾向は天正10(1582)年に甲州征伐で武田氏を滅ぼしたあと、より一層増長したとか。


  • 信長は「自らに優る宇宙の主なる造物主は存在しない」 と言った。
  • 自分自身が単なる人間ではなく、あたかも神的生命を得て、不滅の主であるかのように、すべての人から礼拝されることを望んだ。
  • 「自分以外に礼拝に値する者はいない」 と言うまでに至った。
  • 安土城内には神社がなく、信長は「自分自身が神体である」 と言っていた。
  • 安土城内に寺を建立し、自分の誕生日には、領内のすべての者にその寺への礼拝を強要した。
出典:フロイス『日本史』

フロイスは上記以外にも、"不幸にして哀れな人物"、"途方もない狂気"、"悪魔的な傲慢さ"などと、信長のことを散々に表現しています。


意外な一面も・・

さて、おそらくここまでの信長像はイメージでしょうが、ここからは信長の意外な一面もご紹介します。


慈悲の心

以下『信長公記』に書かれた信長の慈悲深いお話です。


  • 信長が京都へ行き来していて、いつも同じ地にいる乞食に気づきます。信長はその乞食のために木綿を与え、その町の人々にこれを預けさせて面倒をみるよう手配し、みなを感動させたといいます。
  • 清洲を居城としていた頃のある年の夏の盆踊りのとき、信長は天人の仮装をして、小鼓を打ち、女踊りをしたといいます。
    そして津島(=愛知県津島市)の年寄たちを身近に召し寄せ、「これはひょうきんだ」とか「似合っていた」などと、それぞれの者たちと打ち解けて親しく言葉をかけ、炎天下の中で団扇であおいでやったり、「お茶を飲まれよ」とすすめたりしたといい、彼らはみな感涙して帰ったといいます。
出典:『信長公記』

ユーモアあふれる

信長から秀吉の正室「おね」に宛てた手紙からは、信長は秀吉のことを「禿鼠(はげネズミ)」と表現しています。また、明智光秀のことを「きんか頭」と呼んだといい、光秀が禿げていたから、光沢があってつるつるしているきんか(金柑)に例えた、とみられているようです。


このほか、信長の嫡男信忠の幼名は奇妙丸というが、顔が奇妙であったことから信長がそのように名づけたとも言われています。


このように信長の書状や手紙からは、織田家中の者にあだ名や仮名をつけていたことが見て取れます。



まとめ

今回の内容の多くが『信長公記』やフロイスの『日本史』など、一次史料と呼ばれる戦国当時に記録されたものから取り上げています。後世に書かれたものではないので、それなりに内容の信憑性も高いといえそうです。


いかがでしたでしょうか。あなたの信長像に少しばかりの変化があったのではないでしょうか。


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【参考文献】
  • 太田牛一『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
  • 小和田哲男『詳細図説 信長記』(新人物往来社、2010年)
  • 谷口克広『信長の天下布武への道』(吉川弘文館、2006年)
  • 西ヶ谷恭弘『考証 織田信長事典』(東京堂出版、2000年)
  • 岡田正人『織田信長総合事典』(雄山閣出版、1999年)

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  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん
戦国ヒストリーの編集部アカウントです。編集部でも記事の企画・執筆を行なっています。

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