「本山氏攻め(1560-68年)」本山氏を降した長宗我部氏が土佐中部四郡にまで勢力を拡げる!

 1560年、父の死により長宗我部氏の家督を継いだ長宗我部元親は、その年のうちに怒濤の如く本山氏の支城を攻めました。元親の攻勢により、宿敵である本山氏はどんどん追い込まれていきます。

 今回は、長宗我部氏が土佐国中央四郡(長岡・土佐・香美・吾川)を制圧するまでに勢力を拡大した「本山氏攻め」についてお伝えしていきます。

家督相続する長宗我部元親

 長宗我部氏と本山氏は縁戚関係にあったものの、天文24年(1555)に本山氏当主である本山清茂が病没し、嫡男の茂辰が後を継いだのをきっかけに対立関係となっていました。

 長宗我部氏と本山氏のこれまでの関係や永禄3年(1560)5月の「長浜の戦い」については以下の記事に詳しく書かれていますので、ここでは省きます。


 長浜の戦いで長宗我部軍に敗れた本山茂辰は、当初は浦戸城に籠もっていましたが、6月には態勢を立て直すべく浦戸城を捨てて朝倉城に移っています。

 同月には長宗我部氏当主の長宗我部国親が病没し、嫡男の元親が家督を継ぎました。元親は長浜の戦いが初陣でしたが、ここで大いに活躍し、さらに潮江城を焼き、城主の片山半兵衛を倒しています。この功績もあってか長宗我部家中の動揺は最小限に抑えられたようです。

 『元親記』にも、元親が家督を継ぐのであれば安心である、という国親の遺言が記されています。同じく本山氏を滅ぼせなかったのは無念だ、とも伝えており、元親はこの思いに応えるためにすぐさま行動に移しました。

 元親は吾川郡長浜と土佐郡薊野の二方面から本山氏の領土へ侵攻。土佐郡の国沢、大高坂を攻め、それぞれの城主である国沢将監、大高坂権頭を降します。

 さらに秦泉寺大和守、久万豊後守を破り、高知平野西北山間部南まで勢力下におき、福井城城主の稲毛右京も降伏させます。その間に秦泉寺城城主に重臣の中島大和を充て、秦泉城城主だった吉松備後守茂景を万々城城主に、そして久万城城主に筆頭家老の久武内蔵助を配置して万全の態勢を整えました。

 こうして朝倉城攻略へと進めていくのです。

※参考:本山氏との戦いにおける要所マップ。色塗エリアは土佐国。

朝倉城の攻略

 永禄4年(1561)、元親は大黒氏を率いて朝倉庄比治以西の村々の麦薙を行います。そして茂辰家臣の高森出雲が守る防備の固い高森城を福留隼人、中島大和らが攻略。本山勢はその勢いを恐れて神田城や石立城を捨てて朝倉城に逃げ込んだため、元親はこれらの城を押さえ、神田城には細川宗桃、石立城には吉田三郎左衛門と広田四郎兵衛を配置しています。

 こうしていよいよ朝倉城攻めに取りかかります。永禄5年(1562)9月16日、元親は3千の兵を率いてついに朝倉城を攻めました。これが長宗我部氏と本山氏による天下分け目の戦です。

 本山茂辰の子である本山将監貞茂が勇猛果敢であったため、元親はこれに敗れ、一端は神田城まで退却し、攻め寄せる本山勢をなんとか撃退しています。

 9月18日は、両陣営が互いに城を出陣し、鴨部の宮前で激突。およそ12時間、30回を超える衝突を繰り返し、本山勢は一族23人、郎従85人、軍勢235人が討ち死にし、長宗我部勢も軍勢511人が討ち死にするという壮絶な死闘を行い、引き分けました。

 元親は本拠の岡豊城に帰還。茂辰も朝倉城に帰還しますが、茂辰は状況が不利なため、結局は3ヶ月後の永禄6年(1563)1月10日に城を焼き、本拠の本山城へ退却していきました。

 つまり、元親がジリジリと追い詰めていった結果、本山勢の朝倉城を攻略することに成功したのです。『土佐物語』によると、朝倉城を放棄することで茂辰は長宗我部氏との和睦を図ったと記されています。

 また、一条氏も長宗我部氏と手を組み、旧領である高岡郡蓮池城を本山氏の手から奪い返しました。一条兼定は元親に対し、長宗我部氏の勢力が高岡郡には進出してこないことを確認しています。

 これによって茂辰は吉良峰城も放棄。元親の弟である長宗我部親貞がこの城主となり、吉良氏の名跡を継いで吉良左京進親貞と名乗っています。こうして仁淀川以東の土佐国を長宗我部氏は掌握したのです。

本山勢の決死の反撃

 この後、圧倒的に勢力を拡大していく長宗我部氏に対し、本山氏の勢力はどんどんと衰退していきます。主家の不利を悟って元親に降伏する茂辰の家臣が続出したためです。

 このままいくといずれ元親に滅ぼされると危機感を覚えた茂辰の家臣・中島新介は、長宗我部氏の本拠である岡豊城を急襲する作戦を提案しました。本山勢はまさに背水の陣といった状態であり、このような決死の反撃しか打つ手がなかったのでしょう。

 永禄6年(1563)5月5日、この作戦に賛同した高石与七、岡崎与左衛門、桑川久助といった茂辰の家臣らが岡豊西方の一宮に火を放って奇襲を仕掛けました。本山勢は同時に秦泉寺領にも侵攻しています。

 岡豊に放たれた火は広がって土佐神社を焼き、本山勢はこの隙をついて岡豊に侵入しましたが、元親家臣の今井氏と大黒氏が奮戦したため本山勢は総崩れとなって退却しました。秦泉寺領に侵攻した部隊も秦泉寺大和守に撃退されています。こうして最後の反撃となる岡豊城攻撃は失敗に終わったのです。

本山氏の降伏

 本山氏を追い詰めた元親でしたが、本山氏の本拠である本山城は要害の地であり、攻略は容易ではありませんでした。本山城攻略に元親はかなり苦心したようです。

 そこで本山城の西にあたる森城に目を付けます。代々土佐郡森郷は森氏の所領でしたが、本山氏に攻め取られたという経緯があります。落ち延びた森孝頼を元親の父親である国親が保護し、元親の代に至って潮江城の城主となっていました。元親は調略の手を伸ばすため、森氏に旧領である森城を返したのです。森氏は喜んでこの地の地下人らを長宗我部氏側に味方するように説得しました。

 この状況を知った茂辰は味方の離反を恐れて、永禄7年(1564)4月7日、本山城を捨て、瓜生野に籠もります。すぐさま元親は軍勢を送り出しますが、瓜生野の谷口は要害であり、本山勢の兵力が少なくなっているとはいえなかなか攻略できませんでした。

 攻略できたのは永禄11年(1568)の冬であると『元親記』に記されているように、実に4年もの年月を要しています。これはまさに本山勢の粘り強さを物語っているといっていいでしょう。しかもこの間に本山氏の当主である茂辰は病没しており、家督は貞茂が継いでいました。

 この年の冬、元親は瓜生野谷口を守る義井修理を討ち、この要害を攻略したため、貞茂は降伏しました。長年に渡る宿敵ではあるものの、貞茂は元親の姉の子であり、自らの甥です。ですから本山氏を滅ぼすことはせずに和睦し、本山氏の勢力をそのまま吸収します。

 貞茂は元親の一字を拝領して親茂と名乗り、母や妻子らと岡豊に移りました。親茂はこうして元親に仕えることとなり、その次子本山内記も吉良親貞に預けられた後に蓮池で知行を得、三子本山又四郎は元親の家臣である西和田越後の養子となって西和田勝兵衛と名乗っています。

 長宗我部氏はこうして土佐国の中央四郡(長岡・土佐・香美・吾川)を制圧しました。もはや土佐国で長宗我部氏に対抗できる勢力は安芸氏と一条氏のみとなったのです。

おわりに

 長きに渡る壮絶な死闘を演じた長宗我部氏と本山氏でしたが、陰惨な雰囲気が漂っていないのは、最終的に元親が本山氏を許したためでしょう。

 また本山氏の勢力を巧みに吸収することで、土佐国を統一するための力を効率良く有することができたと考えられます。元親の目はこのときすでに安芸氏と一条氏を倒すことに向けられていたのでしょう。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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