「豊臣秀長」豊臣政権のナンバー2?秀吉の信頼厚き弟の生涯とは
- 2019/06/14
豊臣秀長というと秀吉の実弟であることは知っているが、どうも影が薄いというイメージをお持ちの人も多いと思う。『名将言行録』のような史料でも秀長はほとんど登場せず、豊臣政権の中では群を抜いて「地味」で「目立たない」人だと言ってよいであろう。
しかし、よくよく調べてみると、秀長が豊臣政権になくてはならない人物であることがすぐにわかる。豊臣政権影の実力者である秀長の生涯とはいかなるものだったのであろうか。
しかし、よくよく調べてみると、秀長が豊臣政権になくてはならない人物であることがすぐにわかる。豊臣政権影の実力者である秀長の生涯とはいかなるものだったのであろうか。
秀長は秀吉の異父兄弟?
秀吉の父は木下弥右衛門であるというのが定説であるが、実のところは誰であったかはっきりしていない。秀長の父については、母「なか」の再婚相手である「竹阿弥」であると言われていたが、最近の研究では秀吉同様、弥右衛門が父親であるという説が有力になってきている。
出身地は秀吉と同じく尾張愛知郡中村である。いつ頃から秀吉のもとに仕えるようになったかについても、諸説あるがはっきりしない。秀吉がおねと結婚した辺りの永禄5年(1562)頃からだろうとの推測があるばかりである。
秀吉に劣らぬ智将
秀長と言えば、温厚な調整役という印象が強いが、実はかなりの知恵者であったという。軍義や評定において秀吉の戦略に的確な意見を述べるなど、その優秀さには定評があったことで知られる。戦においても秀長の才は際立っている。意外なことに秀長は秀吉同様、調略の才があったらしいのである。例えば、浅井・朝倉攻めの際には浅井長政配下の地侍宮部継潤(みやべ けいじゅん)を調略したのは秀長の功である。その後、天正元年(1573)浅井長政の居城である小谷城攻めでは、長政に嫁いでいたお市と3人の娘の身が案じられていた。そのため、むやみに攻めるのではなく、長政のいる本丸と父久政がいる京極丸を分断するという竹中半兵衛の策を容れることとなったのである。
この京極丸を兵500名でもって、夜襲をかけて落城させたのは秀長である。この功により秀長は秀吉より8500石を拝領する。秀長は戦において勇将なだけでなく、実務的な方面、特に経済政策に通じていたという。
それを示すエピソードが但馬銀山の掌握であろう。
但州朝来郡生野には当時、年間産出量2千数百貫を誇る銀山があったが、秀長は以前からこの銀山に目をつけていたらしい。但馬はかつて山名氏が栄えた地であるが、その凋落ぶりがはなはだしいと見るや、自ら3200人余りの軍勢を率いて但馬国朝来・養父(あさご・やふ)両郡へ攻め込み、わずか20日余りで制圧したというから驚く。
さらには、山名四天王の一角である太田垣土佐守輝延(てるのぶ)の竹田城を攻め落としたのである。
人望だけなら秀吉以上?
類まれなる能力をもった智将秀長であるが、彼の最大の武器は知力・胆力ではなく、人望の高さだったという。『武功夜話』によると、「小一郎(秀長)殿温顔奸邪の心更に相無し。」とある。常に温和で朴訥にして、邪心はこれっぽちもないという人物評である。このような性格のため、誰からも好かれることはもちろん、家臣となったものも秀長に心服し命を懸けて戦ったというからその人徳たるや尋常でない。
藤堂高虎もそんな家臣の1人であった。高虎は優秀であるがゆえに凡庸な主君とはそりが合わず、8人もの主君を渡り歩いたことで有名である。そんな高虎の才を見抜き、重用したのが秀長であった。高虎はその恩を忘れず秀長に忠節を尽くしている。
秀長のこのような人柄のため、竹中半兵衛・黒田官兵衛・千利休などとの連携も極めてスムーズで、これが豊臣政権樹立に大きく寄与したことは疑いない。人望だけなら秀吉以上だったと言っても過言ではないだろう。
大納言秀長
天正10年(1582)6月2日未明、本能寺の変が起こる。これが秀吉の運命を大きく変えていくことになるのだが、その懐刀であった秀長もその流れに否応なしに巻き込まれることになる。秀吉の中国大返しの際に、秀長は殿(しんがり)を務める。「信長斃れる」の情報を毛利方が得れば追撃される危険性のある、極めてリスキーな役回りであったが、秀長は見事殿を務め上げたのである。その後、秀吉は山崎の合戦で明智光秀を下すが、この合戦において重要な働きをしたのが秀長であったという。
四国征伐では総大将
天正13年(1585)の四国征伐において秀長は総大将を務めた。8万の軍勢を率いた秀長は、凄まじい勢いで城を落としていったという。実はこの頃秀吉は珍しく病に臥せっていた。秀長が、長宗我部元親重臣谷忠兵衛忠澄の守る一宮城を攻める頃には、秀吉の病は回復していたため、苦戦する秀長を助けるべく自ら出陣しようとしたとされる。
『四国御発向事』によると、病み上がりの兄秀吉を出陣させたとあっては、名代としての面目が立たないと考えた秀長は「自分に任せてほしい」と文を送ったという。
死力を尽くした攻撃の甲斐あり、一宮城は落城する。その後、長宗我部元親は降伏し、わずか50日余りで四国は平定されたという。
大和国郡山を加増され、100万石越えの大大名へ
四国平定後、秀長は大和郡山を領有することになり、紀伊と併せて百十数万石の大大名となったのである。大和国は領民が抜け目なく宗教勢力が強いことから、極めて治めにくい国であった。『諸家単一文書』によると、秀長は奈良の宗教勢力の力を削ぐため、寺社の石高水増しを検地によりただしたという。
また、奈良の経済力を削ぐため、郡山を繁栄させるという方法を採った。その一例としては、奈良での商いを禁止する代わりに郡山での商いを奨励したため、郡山は奈良を凌ぐ経済発展を遂げたのである。
既存の宗教勢力は徹底して叩いたが、領民の商工業は発展させるやり方は織田信長のそれと類似している。おそらく、秀長は織田政権下で、このやり方がベストだと学んだのであろう。
天正14年(1586)、九州の大名である大友宗麟が島津氏の侵攻に耐えかねて秀吉に助けを求めて上洛する。
『大友家文書録』によると、宗麟は秀吉の手厚いもてなしを受けたとされるが、その際秀吉は、「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候、いよいよ申し談ずべし」と述べたという。
これは、この当時既に大名統制権が秀長に移っていたことを示すものである。その後の九州征伐において、秀長は島津氏と講和に持ち込むことに成功するという功を挙げ、これにより従二位権大納言に叙任される。これ以降秀長は「大和大納言」と呼ばれるようになる。
早すぎる死
豊臣政権の中枢にあって、秀吉の片腕として辣腕を振るっていた秀長であるが、それまでの無理が祟ったのか、天正14年(1586)の頃から体調を崩しがちになったという。『多聞院日記』には同年2月8日に秀長が摂津の有馬湯山で湯治をしたとの記録が残っている。その後、秀長の病状が回復に向かうことはなかったようである。
天正17年(1589)の元旦、諸大名と大坂城にて秀吉に新年祝賀の太刀進上を行ったのを最後に、秀長が大坂城を訪れたという記述が見られなくなる。
病状悪化のため、翌天正18年(1590)の小田原征伐には参加できず、『談山神社文書』によると同年10月頃には秀次が談山神社にて病気回復祈願を行っている。祈願もむなしく翌年の1月22日、秀長は郡山城内で死去する。享年52歳と伝わる。
有能な武将の早すぎる死であった。
もし秀長が長命であったら
『多聞院日記』によると、居城である郡山城には5万6千枚をゆうに超える金子と、二間四方の部屋にびっしり詰まるほどの銀子が備蓄されていたという。話は少々脇に逸れるが、実はこの多聞院日記には、この件が美談として記されているわけではない。それどころか、秀長の銭に対する汚さを非難するような書き方をしているのである。筆者の多聞院英俊は奈良興福寺の高僧であるが、興福寺と言えば秀長の大和統治に際して既得権をはく奪された側の人間であることには注意を要する。
また、河内 将芳氏の『落日の豊臣政権』によると、秀長は奈良において「高利貸し」を行っていたらしい。これも、暴利をむさぼっていた奈良の商人たちから既得権益を奪うために行われたことであるから、これらの件から秀長には金に汚い面があったと考えるのは性急というものだろう。
秀長のこれまで見てきた人物評から判断すると、郡山城での蓄財は豊臣政権安定のために独断で行われたものなのではあるまいか。
それにしても、秀長の死後豊臣政権ではろくなことが起こっていないのだ。秀長の死後間もなく、嫡男鶴松が病死したことを皮切りに、千利休切腹事件、秀次切腹事件、そして前後して朝鮮出兵と、立て続けに政権の体力を奪う出来事が起こっている。
もし、秀長が長命であったなら、これらのうち少なくとも利休切腹と秀次切腹はなかったのではないか。おそらく、秀吉の後を継いで関白となったのは、秀次ではなく秀長であったろう。となると、秀頼が成人するまで秀長が政権をしっかり運営した可能性が高く、徳川家康の台頭も抑えられ、江戸幕府の成立はなかったかもしれない。
豊臣秀長の死によって、事実上豊臣政権は崩壊したというのが私の見立てである。
あとがき
調べれば調べるほど、豊臣秀長は不思議な人物である。どんなに功を上げても、なぜか「秀長」ではなく「チーム豊臣」の手柄となってしまうのである。作家の童門冬ニ氏は、秀長は「兄秀吉の一部になろう」と考えたのではないかと述べているが、おそらくその通りであろう。秀長の死後、豊臣政権はぼろぼろになっていくのであるが、その死の影響があまりに大きいため、秀長暗殺説まで存在するという。
『医学天正記』には秀長の病状が記されているというが、現代医学の観点から見ると胃腸系のヒ素中毒の可能性があるそうなのだ。
秀長の死によって最も得をした人物と言えば、明らかに徳川家康である。一説には、家康が千利休に頼んで茶会の際に秀長に毒を盛ったが、後に秀吉にばれたため、利休が切腹させられたという。しかしながら、能力的なことのみならず人間的な部分においても秀長に心服していた家康であるだけに、毒殺までするだろうかという疑問は残る。
ところで、秀長の死後2日後に家康と利休は2人きりで茶会を開いているが、その席ではどのような話があったのであろうか。興味津々である。
【主な参考文献】
- 安西篤子『天下取りの功労者 豊臣秀長の忠誠心』歴史群像デジタルアーカイブス2014年
- 新人物往来社編 『豊臣秀長のすべて』1996年
- 堺屋太一『豊臣秀長』PHP文庫 2015年
- 河内将芳『落日の豊臣政権』歴史文化ライブラリー 2016年
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