「長宗我部盛親」まさに波乱万丈。後継者問題、所領没収、浪人生活を経て、大阪の陣の主役の一人に!
- 2019/08/07
土佐国の一豪族から、群雄割拠の乱世を生き抜き、四国を制圧した「長宗我部元親」。しかし、元親の没後、長宗我部氏の勢いは急速に弱まっていき、やがて領国を失って滅んでしまいます。
元親の後継者であり、最後の当主となった「長宗我部盛親」とはどのような人物だったのでしょうか?
元親の後継者であり、最後の当主となった「長宗我部盛親」とはどのような人物だったのでしょうか?
長宗我部家の後継者問題
長兄・信親の死後、後継者候補に
天正3年(1575)に長宗我部元親の四男として誕生した千熊丸(のちの盛親)。後継者として全く縁のないはずが、ひょんなことから後継者候補に浮上します。父元親はほぼ四国制圧を成し遂げるも、信長の死後に天下統一事業を引き継いだ豊臣秀吉と敵対して降伏。戦後は土佐一国の領有だけを許され、以後は献身的に秀吉に仕えるようになります。
そして天正14年(1586)には、秀吉の命で九州制圧をもくろむ島津討伐に向け、嫡男である長宗我部信親と共に出陣。しかし、ここで主将を務めた仙石秀久が無謀な作戦を敢行したため、大敗を喫し、その煽りをうけて信親が討ち死にしてしまうのです。
元親は生き残りましたが、長宗我部家の後継者として大きな期待を寄せていた信親の死にとても落胆しました。秀吉が弔問し、豊後国臼杵城守備の戦功を賞して大隅国を元親に与えようとしましたが、それを断ったと伝わっています。失意のどん底にあったのでしょう。
しばらく後継者を指名しなかった元親ですが、やがて最も愛する四男の盛親に家督を譲り、さらに信親の娘(盛親の姪)を娶らせることを決断するのです。
讃岐国を改易されて土佐国に戻っていた元親の次男である香川親和、津野氏の家督を継いでいた三男の津野親忠も健在だったため、この元親の意向は当然のごとく、家中を混乱に陥れることになります。
久武親直の讒言と粛正
後継者を巡る問題では、千熊丸に家督を継がすのは家の秩序を乱すとして、元親の甥である吉良親実や比江山親興が反対。特に姪を正室に迎えることに意義を唱えていたようです。これに対し、以前から親実と確執のあった重臣の久武親直が親実らを陥れる讒言をしたことで、天正16年(1588)、親実と親興は切腹を命じられ、さらにその親族に至るまで処罰されています。
以前は家臣の諫言に耳を貸す理想的な主君の元親でしたが、秀吉に降伏して領地拡大の野望を断たれ、嫡男の信親を失ったことで、冷静な判断ができなくなったとか…。この他、反対意見を主張する家臣を粛正しています。盛親の治世を安泰にするためには、反対勢力を滅ぼし、吸収しておく必要があったのかもしれません。
さらに元親は慶長4年(1599)、朝鮮の役で戦功のあった三男・親忠を、家督相続に不満を持って脱走しようとしたとして香美郡岩村へ幽閉。しかし、その年に病没しています。
増田長盛が烏帽子親を務め、右衛門太郎と名乗っていた盛親は、このように紆余曲折を経て、正式に長宗我部氏の当主となったのです。
関ヶ原後、兄殺害ですべてを失う?
関ヶ原の戦いでは西軍に味方
慶長3年(1598)に秀吉はすでに没しており、慶長5年(1600)には、徳川家康と石田三成の関ヶ原の戦いが勃発します。盛親は元親が家康と懇意だったことから東軍に味方しようと使者を出しますが、『古城伝承記』によると石田方の関所を越えられず、やむなく西軍に味方することになったと記されています。ただし、烏帽子親の長盛との関係性を考えると、もともと西軍に味方をするつもりだったのかもしれません。
長宗我部勢は毛利勢と共に南宮山ふもとの栗原に布陣しますが、毛利方の吉川広家が家康に内通しており、毛利勢はまったく動かず。盛親も西軍の敗戦すら知らぬ間に、関ヶ原の戦いは終了してしまいました。
その後の盛親は戦場を離れ、伊賀国、大和国、和泉国と落ち延び、落ち武者狩りなどを撃退しながら、ようやく土佐国に帰国することができました。結局のところ、盛親は関ヶ原の戦いで何ら影響を及ぼしていない、と言っても過言ではないでしょう。
兄殺害事件で家康が激怒
盛親は久武親直の恭順論を受け、井伊直政を通じて家康に直接謝罪することを決意します。しかしここで大きな問題が発生するのです。それは岩村に幽閉されていた兄・親忠の処遇でした。『土佐国編年紀事略』によれば、藤堂高虎と懇意である親忠が、家康から土佐国の半分を与えられるという話しを聞きつけた盛親は親忠を処刑してしまったとか。一方、『土佐物語』では、殺害を進言してきた親直に対し、「兄を殺して身を立てられようか」と反論するのですが、親直の独断で親忠を殺害したと記されています。
どちらにせよ、兄を殺害した不義者としてのレッテルを貼られた盛親は、家康の怒りを買い、直政の取りなしで死罪こそ免れたものの土佐国は没収。同国は山内氏が治めることになり、本拠地の浦戸城でも引き渡しを巡る一揆が発生して、替え地を与えられる案も消滅。
盛親は戦国大名の地位から領国も家臣もすべてを失い、浪人の身の上になってしまうのです。
豊臣の主力として「大坂の陣」の舞台へ
大坂城へ千の兵力を率いて入城
京都にあって隠棲していた盛親でしたが、慶長19年(1614)の大坂冬の陣では豊臣方に加勢しています。京都所司代の板倉勝重に警戒されていたものの、家康に刃向かうつもりはないと釈明し、油断したところを突いて京都を脱出、当初は6騎ほどの家臣しか率いていませんでしたが、大坂城に到着する頃には千まで膨らんでいます。
おそらく土佐国を追われてからも旧臣と連絡を取り合い、決起するタイミングを計っていたのでしょう。それだけ長宗我部氏再興を願っていた家臣たちも大勢いたということです。
最大の手勢を率いる盛親は、真田幸村(信繁)や後藤基次らとともに五人衆として別格の待遇を受けたといい、大坂城に集まる牢人衆を束ねていきました。籠城戦となった冬の陣では、真田丸に援軍として入って守備を固めたとみられますが、やがて和議が結ばれたため、大きな衝突にまでは至っていないようです。
ちなみに休戦期間中、豊臣方では徳川との再戦するかどうかを検討する中、大まかに融和派と過激派に分かれたようです。『駿府記』によると、盛親、大野治房、毛利勝永、仙石秀範の4人は過激派だったとか。そして結局、決戦は避けられぬ状況となるのです。
大坂夏の陣で藤堂高虎と激戦
元和元年(1615)、家康との最後の決戦となる大坂夏の陣では、盛親は5千の兵を率いて八尾方面へ出陣し、徳川方の高虎の部隊と激突しました。当初は吉田内匠が討たれて劣勢だった長宗我部勢でしたが、盛親が三百騎の馬廻りを下馬させて槍衾で反撃に転じたため、藤堂勢では藤堂勘解由氏勝、藤堂高刑、そしてもとは長宗我部氏に家老として仕えていた桑名吉成らが討ち死にしています。
藤堂勢は深刻な損害を受けながらも持ちこたえ、若江方面で木村重成を討った井伊直孝が合流した後に盛り返し、長宗我部勢を敗走させました。
その後は大坂城も陥落し、盛親は京橋の守りを捨てて落ち延びましたが、蜂須賀氏の家臣に発見されて捕らえられ、二条城の柵に縛り付けられてさらし者にされた後に、六条河原で斬首されて、その首は三条河原でさらされています。
なお、盛親には五人の男子がいましたが、ことごとく捕らえられ処刑されたために、元親直系の長宗我部氏はここに滅んだのです。ただし、元親の弟である島親益の子孫は土佐藩に下級藩士として仕えており、現在の長宗我部氏の当主となっています。
おわりに
元親に愛されるだけに、盛親はやはり文武の才能は優れていたのではないでしょうか。しかし後継者を巡る問題で長宗我部氏が衰退してしまったことで、なかなかその器量を発揮する機会に恵まれなかったようです。また、秀吉から元親の後継者として認めてもらえなかったという説もあります。そのため元親のように侍従に任じられることもなく、土佐守も称することができなかったようです。
信親の烏帽子親が織田信長であるのに対し、盛親の烏帽子親が増田長盛だったという時点で、秀吉の長宗我部氏や盛親に対する扱いがわかるような気がします。信親が生きていれば、長宗我部氏はもっと一枚岩になり、家康が目を見張るほどの活躍ができたのではないでしょうか。
【参考文献】
- 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』(KADOKAWA、2015年)
- 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社、2015年)
- 山本 大『長宗我部元親(人物叢書)』(吉川弘文館、1960年)
- 平井上総『長宗我部元親・盛親:四国一篇に切随へ、恣に威勢を振ふ』(ミネルヴァ書房、2016年)
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