”あと一歩” のところで果たされなかった! 土佐の武将・長宗我部元親の四国統一

岡豊城にある、土佐の戦国大名・長宗我部元親の像
岡豊城にある、土佐の戦国大名・長宗我部元親の像

「姫若子」から「鬼若子」へ

 天文8年(1539)、長宗我部元親は国親の子として誕生した。幼い頃は非常におとなしかったので、「姫若子」と呼ばれたほどだった。ところが、元服後に初陣に臨んだ元親は、その勇猛果敢な戦いぶりから「鬼若子」と恐れられたという。

戦国期の土佐国は、別格の存在とされる一条氏と、長宗我部ら有力豪族「土佐七雄」が主に支配していた(※戦ヒス編集部作成)
戦国期の土佐国は、別格の存在とされる一条氏と、長宗我部ら有力豪族「土佐七雄」が主に支配していた(※戦ヒス編集部作成)

 永禄3年(1560)、国親は長浜の戦いで朝倉城主で土佐七雄の一人の本山茂辰と交戦した。このとき元親は、弟の親貞とともに初陣を飾った。元親は槍を手に取って敵陣に攻め込み、大いに軍功を挙げた。元親の初陣は22歳と遅かったが、その勇名は土佐国内に轟いたのである。この年の6月、国親が亡くなったので、元親が長宗我部家の家督を継いだ。


土佐中央部の制圧

 翌年3月、元親は茂辰との戦いに勝利して、その居城の朝倉城に迫った。永禄5年(1562)9月、元親は朝倉城を攻撃したが、茂辰の子・親茂の反撃によって敗北した。以後の戦いでも勝利することができず、戦いは進展しなかった。

 ところが、茂辰配下の家臣らは次々と長宗我部氏に寝返ったので、茂辰は朝倉城から本山城に本拠を移した。永禄6年(1563)、元親は弟の親貞に土佐七雄の吉良氏の名跡を継がせ、戦いを有利に進めた。

 同年5月、茂辰は元親の居城・岡豊城の攻撃に失敗し、翌年4月には本山城を退去して、瓜生野城で元親に徹底抗戦しようとした。しかし、戦闘中に茂辰が亡くなり、子の親茂の奮戦もむなしく、永禄11年(1568)に降伏したのである。

 こうして元親は、土佐中央部の制圧に成功した。



参考:元親の戦いと要所マップ。色塗エリアは土佐(※戦ヒス編集部作成。拡大表示で各地点のラベル表示がされます)

土佐東部の制圧

 同じ頃、元親は安芸郡を支配していた安芸国虎とも抗戦していた。永禄3年(1560)に元親が茂辰と交戦中、国虎は岡豊城に攻め込んだ。しかし、城を守っていた元親の家臣の吉田重俊が反撃し、国虎は敗北した。翌年、国虎は義兄の一条兼定の仲介により、元親と和睦を結んだのである。

 永禄12年(1569)4月、国虎は元親との和睦を破り、兼定とともに戦いを挑んだ。同年7月、両者は八流の戦いで雌雄を決することになった。元親の率いる軍勢は7000、一方の国虎の軍勢は5000だったと伝わる。

 ところが、国虎配下の家臣らは次々と裏切り、しかも兼定からは約束の援軍が到着しなかった。国虎は残った兵とともに安芸城に籠ったが、やがて兵糧が尽き、ついに降参したのである。国虎は降参の条件として、城兵の助命を申し入れ、自らは切腹して果てた。この戦いの勝利により、元親は土佐東部を掌握したのである。


一条兼定との死闘

 元亀2年(1571)、元親は土佐七雄の津野氏を下し、3男の親忠に津野家を継がせた。残った勢力は、中村に本拠を置く一条兼定のみになった。

 兼定は頼りにしていた安芸氏が元親に負けたので、天正元年(1573)に隠居を強制されたという。翌年2月、兼定は豊後に渡海して大友氏を頼り、元親を討つべく兵を募った。一方、一条家中は兼定が豊後に渡海したので大混乱に陥り、それを知った元親はただちに中村を占拠した。元親の侵攻により、一条氏は窮地に追い込まれた。

 天正3年(1575)7月、兼定は大友氏の支援を得て、元親に戦いを挑んだ(四万十川の戦い)。しかし、兼定は劣勢を挽回できず、元親に敗北した。結局、一条氏は事実上滅亡し、兼定は天正13年(1585)に没したのである。

 こうして元親は土佐西部を支配下に収め、悲願だった土佐統一を成し遂げた。とはいえ、元親の目標は土佐統一に止まらす、最終目標は四国統一にあったのである。


失敗した四国統一への道

 天正3年(1575)から翌年にかけて、元親は阿波へ侵攻した。元親は阿波南部に軍勢を送り、海部城を落とした。さらに、由岐、日和佐、牟岐、桑野、椿泊、仁宇などの阿波東南部の諸将を次々と降参させた。

 最終的に天正10年(1582)9月、元親は十河存保の勝端城を攻撃し、存保を讃岐に敗走せしめ、さらに反長宗我部の岩倉城も落とした。これで元親の「阿波統一」が成ったという説もあるが、実は土佐泊城では反長宗我部の勢力が抵抗していたので、完全に統一できなかったという。

 天正6年(1578)以降、元親は讃岐へ侵攻した。翌年、元親は天霧城主の香川氏と姻戚関係を結び、讃岐統一を円滑に進めようとした。天正7年(1579)以降、元親は長尾氏、羽床氏を降参に追い込み、讃岐中西部を支配下に収めることに成功した。

 通説によると、天正12年(1584)6月、元親は反長宗我部の十河城、虎丸城などを落とし、讃岐に逃れた十河存保を放逐した。これにより、元親は「讃岐統一」を果たしたといわれているが、実は虎丸城は落城しておらず、完全な統一ではなかったという。

 元親は、伊予にも侵攻した。天正9年(1581)7月、元親は金子元宅と同盟を結んだ。同盟締結後、元親は讃岐に侵攻し、元宅は伊予河野氏に対抗した。また、元親は伊予西部の曽根氏、平氏とも同盟関係を結んだ。

 天正4年(1576)以降、元親は宇和郡に本拠を置く西園寺氏と交戦した。しかし、天正7年(1579)、元親は岡本城攻めで盟友の久武親信を失い、河野氏は毛利氏からの支援を受けて抵抗したので、戦いは思うに任せなかった。それゆえ、元親は伊予統一を成しえなかったという。

 元親は阿波、讃岐、伊予で味方となる武将と同盟を結び、四国統一を目論んだが、実際は「あと一歩」のところで、完全な四国制覇ができなかったのである。


織田信長に阻まれた四国統一

 元親が四国統一に邁進している頃、行く手を阻んだのが織田信長だった。元親は信長と誼を通じ、子の信親の「信」の字を信長から与えられた。これまで、偏諱授与は天正3年(1575)と言われていたが、今では天正6年(1578)とされている。また、信長は元親の四国統一の戦いを認め、獲得した領土を与えると約束した(「切取自由」)。それゆえ元親は、四国統一戦を堂々と行ったのだ。

 天正8年(1580)になると、信長は元親の四国統一を認めず、阿波南部および本国の土佐のみの領有を認めることを突如として通告した。元親にとっては、青天の霹靂だった。元親は大いに不満を抱き、以後、両者の関係は悪化の一途をたどった。

 当時、信長のもとで、長宗我部氏の取次を担当していたのが明智光秀である。光秀の家臣・斎藤利三の妹は、元親の妻だった。信長と元親の関係が悪くなると、取次だった光秀は苦悩し、これが本能寺の変の遠因になったとさえいわれている(諸説あり)。

 元親は信長とギリギリの交渉を続けたが、天正10年(1582)5月になると、信長は子の信孝を総大将として、長宗我部征伐の兵を送り込んだ。しかし、同年6月2日に本能寺の変が勃発し、元親は人生最大の危機を回避したが、その後も元親の苦難は続くのである。



【主な参考文献】

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。