竹中半兵衛ってどんな人? 名言や逸話からその人物像に迫る

岐阜県垂井町にある竹中半兵衛の銅像
岐阜県垂井町にある竹中半兵衛の銅像
 戦国時代において最も勇猛な武将と聞かれれば、十人十色な答えが返ってくるでしょう。しかし、戦国時代において最も有名な軍師といえば、その1人に竹中半兵衛(たけなか はんべえ)があげられるでしょう。後世に作られたイメージの影響も大きいですが、黒田官兵衛とともに豊臣秀吉の出世を大きく助けた存在として認識されています。そんな竹中半兵衛について、名言や逸話として伝わるものを紹介していきたいと思います。

斎藤氏家臣

 竹中半兵衛こと竹中重治は、美濃大御堂城(岐阜県大野町)の城主・岩手重元の子として天文13年(1544)に生まれました。

弘治2年(1556)には初陣を迎えます。この戦いは斎藤道三と義龍父子による争いで、半兵衛の一族は道三に味方しています。しかし道三は敗死し、父不在だった大御堂城を半兵衛は見事に守り抜いたと言われています。

 その後、永禄元年(1558)年頃に ”竹中” に名乗りを変え、斎藤義龍・龍興父子に仕えます。永禄3~5年(1560~62)の間には家督を相続。しかし、義龍死後の混乱や元々道三に味方していたこともあり、半兵衛や西美濃三人衆と呼ばれる国人領主はあまり重用されなかったようです。そのため、永禄6年(1563)に妻の実家で西美濃三人衆の1人・安藤守就の協力のもと、主君であるはずの斎藤氏の居城・稲葉山城を襲い、一時は占領もしていました。

 その後、半兵衛は美濃での活動も確認されていますが、一時は浅井長政の客分として近江に滞在していた時期もあるようです。その際は隠居生活のような日々を過ごしていたと思われています。

稲葉山城を奪った理由

 竹中半兵衛が稲葉山城を奪った理由として、斎藤飛騨守という人物が逸話に登場します。この人物は斎藤龍興のお気に入りで、ゴマすりが上手い人物だったとされています。稲葉山城に登城した半兵衛が城に戻る際、櫓の上から半兵衛に小便をかけたと伝わっています。この事件の後、半兵衛は龍興を諫めるためにわずかな手勢で稲葉山城を落として見せたというのです。

 ただし、快川紹喜という武田領内にいた有名な僧の手紙によれば、この事件は「野心あってのもの」と言われています。

「竹中遠州の子、半兵衛が二月六日の白昼に奪い取り、安藤伊賀守と二人で美濃一国を領有した」
「美濃の中で義理も恥も知らない連中は皆、竹中の下へと馳せ参じた」(禅昌寺への手紙より抜粋)


 もし野心が主体であるならば、現在一般に浸透しているイメージとは大分違った半兵衛像が見えてきます。この後、斎藤龍興は快川紹喜の仲介で武田氏と同盟を模索し、それに気づいた半兵衛が稲葉山城から撤退したのが真相のようです。信長はこの動きで半兵衛に協力した領主を調略し、美濃を落としたと推測されています。

稲葉山城を奪い取ったのはわずか16人!?

 半兵衛が稲葉山城を占領した時、たった16人の兵で落としたという逸話があります。実際は上の手紙にあるように親戚の安藤守就とともにある程度の兵で落としたとみられています。

 逸話では弟の重矩に病気と報告させ、その見舞と称して家臣を城に連れこんだとされています。この際、逸話に登場する斎藤飛騨守は討たれたと言われています。この話は半兵衛の子である竹中重門が記した『豊鑑』や小瀬甫庵の『信長記』に記されています。

秀吉の与力となって活躍

 半兵衛がいつ信長の家臣となったかはわかりません。しかし、秀吉の与力として信長の家臣になったと考えられています。元亀元年(1570)に信長を裏切った浅井長政の家臣に対する調略を担当していたことが確認できます。元浅井の客分という関係を利用したと思われます。姉川の戦いでは安藤守就の下で参陣しており、時期的にはこの後に秀吉の与力になったと考えられています。

 秀吉が中国方面軍の担当となると秀吉とともに宇喜多氏・毛利氏と戦います。天正6年(1578)は宇喜多氏の家臣・小坂弥三郎を調略し信長から報奨金を与えられています。その後も中国戦線で活躍しますが、天正7年(1579)年に若くして病死しました。

馬に拘るな

「身の程を超えるような値段の馬を買うべきではない」『名将言行録』


 竹中半兵衛は日頃からあまり良くない馬を買って乗る人物でした。秀吉はもう少しいい馬を買えばいいのではと問いかけたことがあるのですが、その際半兵衛はこう答えたと言われています。理由を聞かれた半兵衛は「良い馬に乗るとこれを惜しんで戦い方が臆病になって戦機を失うから」と答えたそうです。馬を使い潰すつもりで勝利を目指すという半兵衛の戦争観が見える逸話です。

武士ならば足がしびれないようにせよ

 竹中半兵衛は足がしびれないように、座っていても定期的に足や手を揉んでいたという逸話があります。この事についてある人物が聞いた時、半兵衛はこう答えたそうです。

「武人たるべき人は普段から武義を心に忘れてはいけません。他人の作法と多少違うことがあってもかまいませんが、武士道の事において汚名を受けるのは武士の本意ではありません。今ここで何かあった時、足が痺れた手が凍えたなどという言い訳が許されるでしょうか?」『士談』


 武士ならばいつ襲われても戦えなければならないから、こういうことをするのだという答えです。実際、半兵衛は秀吉の前でも関係なくこの態度だったと言われています。

両兵衛の以心伝心

 半兵衛と同じく秀吉の与力だった武将で両兵衛として半兵衛とともに伝わっているのが黒田官兵衛孝高です。この2人についても逸話がいくつか残っています。その1つがこの以心伝心な2人の逸話です。

三木城攻めの初期、秀吉と半兵衛の本陣から前線の後方の山に所属不明の兵がいることに秀吉軍が気づきました。この報告を受けて半兵衛はこう言いました。

「今日の合戦はお味方が勝利するでしょう」
「あの山陰に見える伏兵は敵ではなく、官兵衛の部隊だからです。と言っても、私が官兵衛殿と話し合ったのではありません。しかし、官兵衛はここに私が居ることを知っています」
「官兵衛殿の考えは、鏡合わせで見るように解ります。神子田殿の前に敵が出てくれば矢戦を少々やって、必ず早々に撤退するようにと仰せつけられるべきです」『黒田家譜』


 秀吉は半兵衛の意見をそのまま取り入れたところ、官兵衛も半兵衛が考える通りに動き、戦で勝利することができたそうです。官兵衛は戦の後、敵の動きが早かったので伝える時間がなかったが、半兵衛がいるから大丈夫だろうと考えたと言っていたそうです。

黒田官兵衛の裏切りを信じず

 天正6年(1578)、一度は信長に降った荒木村重が有岡城(兵庫県伊丹市)で信長に反乱を起こしました。村重と仲の良かった官兵衛は思い直すよう説得すべく単身で有岡城に向かいました。しかし、村重は官兵衛を幽閉、有岡城陥落まで解放されませんでした。

 この時、信長は村重とともに官兵衛も裏切ったと考え、後の黒田藩当主である息子の黒田長政(幼名・松寿丸)を処刑しようとします。しかし、半兵衛は黒田官兵衛が裏切るはずはないと判断し、信長に背いて身代わりを立てて松寿丸を自分の居城である菩提山城(岐阜県不破郡)に逃がしました。

天正7年(1579)、半兵衛の死後に有岡城は陥落。救出された官兵衛は足が不自由になっていました。半兵衛の死を悼みつつ、官兵衛は息子を救ってくれた半兵衛に大いに感謝したといいます。

この話は江戸時代に編纂された黒田家の公式記録である『黒田家譜』に記されています。

秀吉の増長を懸念する

 竹中半兵衛は秀吉の少々調子に乗り始めた様子に懸念を持っていたこともわかっています。

 天正7年(1579)、出世を続ける秀吉が家臣を集めて酒宴を開き、「我が家の兵の弓の腕は昔に比べて随分盛んになった」と言いました。これに家臣たちは「三倍になり」「五倍になり」と言い、秀吉は上機嫌に「十倍になったのではないか」と答えました。しかし、半兵衛はこの会話に冷や水を浴びせています。

「弓矢、昔に劣れり」『名将言行録』


 半兵衛の答えに驚いた秀吉が理由を尋ねると「宮田喜八死して以来甚だ劣れり」と答えました。宮田喜八は秀吉の家臣で随一の弓の名手で羽柴四天王と呼ばれていましたが、三木城攻めの最中に討死してしまいました。秀吉はその言葉に「半兵衛の申す通りだ」とため息をもらしたそうです。

戦場で死ぬ

 竹中半兵衛は三木城攻めの最中に病死しましたが、一度は療養のため京に戻りながらすぐ戦場に戻っています。天正7年(1579)4月に病状が発覚し、6月に病死するという非常に短期間の出来事になっています。病状が発覚した際に喀血(血が混じる咳)をしていたと言われ、死因は肺炎か肺結核ではないかと言われています。この際の様子はこのように伝わっています。

「重治病におかされ、上京して養療すとらいえども、不快につき三木の陣営平山にかえり、陣中において卒す。勇士、死するといえども戦場を忘れざるなり、年三十五」『士談』


 秀吉は京都で静養するよう半兵衛に伝え、一時は京で療養しながら戦場に戻りました。これは黒田官兵衛が幽閉されていた時期だったため、戦場の人材不足も理由だったと思われます。また、肺炎や肺結核が当時の医学で治療できるかは難しいところで、半兵衛は治らないなら戦場で死のうと考えたのでしょう。

数珠を常に持っている

 半兵衛は常に数珠を持っていたという逸話があります。これについて半兵衛はこう語っています。

「私の数珠は死後の世界のことを考えて持っているわけではない」『士談』


 これは死期を悟った半兵衛が家臣から数珠をもらって激怒したという逸話です。半兵衛は常に数珠をつまぐる(=手元でいじる)人だったそうです。足を常に揉んだり数珠をいじったりしていたことを考えると、実は落ち着きのない人物だったのかもしれません。

諸葛孔明になぞらえた逸話が多い

 半兵衛は創作と思われる逸話が特に多い人物です。その中でも、中国三国時代の英雄として知られる諸葛孔明になぞらえた逸話や名言が多くなっています。

「今孔明」という評判

 半兵衛の子である竹中重門が記した『豊鑑』には信長が半兵衛を「今孔明」と呼んだと書かれています。『豊鑑』は父親の業績をかなり大げさに書いているとされていますが、江戸時代以降の半兵衛のイメージに大きな影響を与えています。

三顧の礼で迎えられた?

 隠居生活を送っていた半兵衛は信長から家臣に誘われても断っていたと言われています。そこで秀吉が勧誘を命じられ、秀吉は三度半兵衛の邸宅を訪ねて誘ったため、これに応じたという逸話があります。これは三国志における諸葛孔明を迎えるため劉玄徳が行った三顧の礼という逸話と同じものになります。

牛に乗っていた?

 諸葛孔明は木牛と呼ばれる手押し車を利用していたと伝わっています。半兵衛についても、牛に乗って移動したという逸話があります。

「忙しいからこそ、牛に乗って心をしずめている」

 しかし、これは馬の逸話からも虚飾が大きいことがわかります。実際、同じような逸話の中に、こうした話も伝わっています。

「陣中において、いかに竹中半兵衛と言っても、いつも心静かに牛に騎乗できるわけがない。あれはたまたま、1,2度牛に乗った事があるのを、話を大きく盛っただけの話だ」『武功雑記』


 江戸時代の史料が多い竹中半兵衛は、こうした逸話への反論的な逸話も存在するのです。『武功雑記』の筆者は肥前平戸藩4代藩主である松浦鎮信です。江戸時代の人物ですが、彼から見ても少しおかしい逸話だったということでしょう。

江戸時代は半兵衛のイメージが固まっていない時期

 『武功夜話』という史料として扱いの難しい家譜があります。この中で半兵衛は「昔楠木、今竹中」と称されています。成立は江戸時代と見られていますが、江戸時代には既に竹中半兵衛は戦上手というイメージが確立していたと考えていいでしょう。また、病弱だったために「その容貌、婦人の如し」ともされています。薄命の軍師というイメージは、江戸時代に完成したと思われます。

 一方で、同じ江戸時代に山鹿素行が記した『士談』という書物では、半兵衛は武士らしい武士として描かれています。半兵衛が生きていた当時の史料で見える半兵衛は、織田で謀略・軍事で活躍した人物です。しかし、どちらかと言えば山鹿素行のイメージが本来の半兵衛に近いと思われます。

 史料では確認できませんが、天真正伝香取神道流という塚原卜伝に繋がる剣術の皆伝だったという話も伝わっています。若くして病死したとはいえ、実際は筋骨隆々の武士だったかもしれません。


【主な参考文献】
  • 岡谷繁実『名将言行録』(国立公文書館デジタルアーカイブ、1869年)
  • 小瀬甫庵『信長記』(現代思潮社、1981年)
  • 加来耕三『武功夜話―現代語訳 (信長編)』(新人物往来社、1991年)
  • 竹中重門『豊鑑』(国立公文書館デジタルアーカイブ、1631年)
  • 松浦鎮信『備前老人物語 武功雑記』(現代思潮社、1981年)
  • 山鹿素行『山鹿語類』(京都大学貴重資料デジタルアーカイブ、1853年)

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  この記事を書いた人
つまみライチ さん
大学では日本史学を専攻。中世史(特に鎌倉末期から室町時代末期)で卒業論文を執筆。 その後教員をしながら技術史(近代~戦後医学史、産業革命史、世界大戦期までの兵器史、戦後コンピューター開発史、戦後日本の品種改良史)を調査し、創作活動などで生かしています。

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