本能寺の変「信長非道阻止・自己神格化阻止説」~ 信長との政策上の対立はあった!?
- 2021/10/18
明智光秀が本能寺の変を起こした動機の中で、「信長非道阻止・自己神格化阻止説」を唱える人は割と多い。ここで、信長の非道行為については、歴史学者小和田哲男氏の『明智光秀 つくられた「謀反人」』によると、以下のようなものであるという。
光秀が阻止を考えるとすれば、上記の1、2、3のいずれか、或いは全てであると思われる。そして、ここが実は重要な点なのであるが、光秀自身が阻止したかったのか、誰かから懇願されて阻止に走ったのかによって、その扱い方はガラリと変わるであろう。
一方、自己神格化阻止説とは安土城の総見寺で、自らを「神体」と定める信長を見た光秀が「信長は天皇を超える神格化を望んでいる。」と考え、阻止に走ったとするものである。さて、それでは史料は何を語りかけてくれるのであろうか。
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- 京歴への口出し
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光秀が阻止を考えるとすれば、上記の1、2、3のいずれか、或いは全てであると思われる。そして、ここが実は重要な点なのであるが、光秀自身が阻止したかったのか、誰かから懇願されて阻止に走ったのかによって、その扱い方はガラリと変わるであろう。
一方、自己神格化阻止説とは安土城の総見寺で、自らを「神体」と定める信長を見た光秀が「信長は天皇を超える神格化を望んでいる。」と考え、阻止に走ったとするものである。さて、それでは史料は何を語りかけてくれるのであろうか。
藤原姓を名乗っていた信長
いきなり姓の話になり、驚いた方もいると思うが、後に羽柴秀吉が関白となる際に姓を「藤原」に改めていることを見ても、改姓と政権構想には少なからず関係があると言える。信長の出自に関しては複数の説があるが、その出自の真偽はともかく、信長が当初は藤原姓を名乗っていたことは事実である。このことは信長が1549年11月に尾張熱田八カ村に宛てた制札に「藤原信長」と署名したものが残されていることから明らかである。
では、藤原姓を名乗り、室町幕府15代将軍足利義昭を担いでいた時期の信長の政権構想とはどんなものだったのだろうか。意外なことであるが、信長はある時期までは義昭を立てて、室町幕府を盛り立てようとしていた節があるのである。
これまでの定説では、信長が、はなから義昭を利用しようとして奉じたとされてきた。その根拠の1つに挙げられていたのが、信長が義昭に突き付けた「殿中御掟(でんちゅうおんおきて)」であった。この「殿中御掟」によって義昭の行動を縛り、徐々にその権限を弱めていこうとする信長の狙いが窺えるというのである。
ところが、近年の研究によって「殿中御掟」はどうやら義昭の権力乱用がひどく、これを押さえるために室町幕府の先例や規範に則って定められたようなのだ。つまり、信長が一方的に制約を加えようとして定めたものではないということになる。
「殿中御掟」は当初16ヵ条からなっていたという。しかしながら、懲りない義昭は態度を改めようとしない。将軍が発行する御内書の濫発によって混乱が頻繁に生じ、義昭支持派であった島津義久ですら苦情を申し入れている。さらに、将軍家家臣が寺社領を押領するという通常ならあり得ない事態も頻発していたのである。
これを見た信長は殿中御掟追加5か条を定めて、義昭に承認させる。その後、信長と義昭は衝突を繰り返すようになり、最終的には将軍である義昭の方が槇島城(まきしまじょう)での敗戦で、政治的な失脚をしてしまうことになる。その後、義昭は京を追放されたというのが定説であった。
しかし、歴史学者の小林正信(こばやし まさのぶ)氏によると、義昭は追放されたのではなく、幕府内部でも孤立を深めた結果「出奔した」というのが事の真相だという。
この件に関して、信長は極めてまっとうな対応をしたことが見て取れる。ただ、少なくとも信長の室町幕府に対する評価は下がる一方だったのではないかと推察される。
この頃から、光秀は義昭の家臣を辞し、信長のみに仕えるようになったとされているから政策上の対立はなかったと考えるのが普通であろう。
平姓に改姓したのは将軍義昭追放後
さて、足利義昭が追放された(出奔した)のは1573年のことであるが、その後の信長の行動に変化が見られる。まずは藤原姓を平姓に改姓しているのであるが、これは何を考慮してのことなのだろうか。平氏へと改姓した時期については、老僧兎庵(とあん)が記した『美濃路紀行』によると1573年頃のことらしい。つまり、義昭の追放(出奔?)の前後には、平氏を名乗っていたことになる。
これをもって、源氏である足利義昭と対抗していく意思表示をしたという識者もいるが、谷口克広氏の『信長と消えた家臣たち』によると、信長が追放後も義昭の帰京を要請する姿勢を見せているという。これは、対抗姿勢というよりも融和・懐柔策といった方がよく、義昭の存在が平氏改姓の理由であるとは考えにくい。
私の個人的な見解としては、1573年4月に武田信玄が死去したことの影響の方が大きいのではないかと思う。
最大の脅威である信玄の死によって、信長には天下静謐の新たなビジョンが浮かんだのかもしれない。おそらく、信長は平清盛を意識していたものと思われる。信長の軍は複数の旗印を用いていたが、その中には清盛の旗印もあったと言われているからである。
ところが、朝廷からの三職推任によって、征夷大将軍・関白・太政大臣いずれの官位でも与えるという申し出があった際には返答を保留している点に注目したい。
三職推任問題と信長の政権構想
信長がどの官位を望んだかは諸説あるが、征夷大将軍説と太政大臣説に二分されているようである。征夷大将軍説は勧修寺晴豊(かしゅうじはるとよ)の「天正十年夏記」1582年5月4日の記述に「関東打ち果たし珍重なので、将軍になさるべきとのご勅旨」とあるというところからきている。
太政大臣説は根拠が複数あるが、私が注目したいのは本能寺の変後の7月17日付羽柴秀吉の毛利輝元宛書状において、秀吉が信長のことを「大相国(たい しょうこく)」と呼んでいることである。
大相国とは太政大臣の唐名であるから、秀吉の書状は信長が生前太政大臣の内示を得ていた可能性が高いことを示している。とは言え、武家伝奏として朝廷と信長と朝廷のパイプ役であった勧修寺晴豊がいい加減なことを「ご勅旨」として述べるというのも考えにくい。
ここで、私の脳裏に足利義満のことが浮かんだ。
義満は征夷大将軍を義持に譲った後に太政大臣に就任している。義満が権謀術数によって、皇位簒奪を目論んだというのは有名な話であるが、信長が平氏でありながら征夷大将軍になり、太政大臣も兼任しようとしていたらどうであろう。
皇位簒奪まで目論んだ義満もなしえなかったことであるだけに、天皇を超越した存在になろうとしていると思われても不思議はないのではないか。光秀はこの時点で信長を「ヤバイ人」と感じたのかも知れない。
光秀のビジョンとの不協和音はあった?
以前の記事でも触れたが、光秀は秩序主義者というよりは合理主義者であるから、「ヤバイ人」とは感じても、「けしからん」とはならなかったように思う。ただ、謀反を起こした場合の大義名分は整ったと感じた可能性はある。冒頭に挙げた信長の非道行為1、2、3は光秀が阻止しようと考えたというよりは朝廷などの勢力の「何とかしてほしい」という声を光秀が利用したと考えた方が良いのかもしれない。なにより、本能寺の変直前まで光秀と信長の関係は良好であったから、政権構想上の対立はほぼないものと考えてよいだろう。
信長の自己神格化にしても、ルイスフロイスの『日本史』に記述があるのみで、光秀が信長の自己神格化に批判的だったという記述はどこにも見られない。
史料を見る限り、本能寺の変以前に光秀が信長に対して批判的であったとする証拠はないに等しい。にもかかわらず、本能寺の変当日に西美濃の武将西尾光教に宛てた書状には
(信長・信忠)父子の悪逆、天下の妨げ、討ち果たし候」
と書いているのである。
これは信長の悪評を利用した大義名分作りと思うのは私だけではないだろう。光秀は「信長を排除したい勢力の要望に応える=その勢力は味方してくれる」と考えていたのかもしれないと、ふと思った次第である。
【主な参考文献】
- 小和田哲男『明智光秀 つくられた謀反人』(PHP研究所、1998年)
- 小和田哲男『明智光秀と本能寺の変』(PHP研究所、2014年)
- 藤田達生『謎とき本能寺の変』(講談社、2003年)
- 谷口克広『検証 本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)
- 明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫、2013年)
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