「加納口の戦い(1544 or 1547年)」道三の罠だった?織田信秀、マムシに大敗。信長と帰蝶縁組のきっかけに

美濃の斎藤道三と尾張の織田信秀は数年争っていましたが、「加納口の戦い」で信秀が大敗した後、天文17年(1548)に和睦しています。これがきっかけで道三の娘・帰蝶(濃姫)が信秀の嫡男・信長に輿入れさせることになりました。今回は織田・斎藤両家の婚姻同盟のきっかけとなった「加納口の戦い」にフォーカスします。

戦いの背景

美濃国は斎藤道三による下剋上での国盗りが有名ですが、それ以前は美濃守護の土岐氏が国を統治しており、土岐頼武・頼芸兄弟による家督争いがありました。


この家督争いは大永5年(1525)に道三の主君である頼芸派が勝利し、嫡男であった頼武を美濃から追いだします。このとき頼武は妻の実家である越前の朝倉氏を頼っています。

ただ、この後も頼武とその嫡子・頼純(帰蝶最初の夫)はあきらめずに頼芸との争いを続けていきました。対立の構図は概ね以下のとおり。

◆ 頼武・頼純派

  • 土岐頼武
  • 土岐頼純
  • 越前朝倉氏
  • 近江六角氏
など…

VS

◆ 頼芸派

  • 土岐頼芸
  • 斎藤道三
など…


頼武が病没した後も、上記の対立構図は続きました。特に天文4年(1535)には両陣営による大規模な戦乱があったようですね。このあとに和睦となり、頼純は大桑城主として美濃に帰還を果たしますが、天文12年(1543)には再び道三らに襲撃されたようです。このとき頼純はやむなく敗走、そこで彼が頼った相手は信長の父・織田信秀でした。

そして加納口の戦いは、美濃の正当な守護である土岐氏(頼武・頼純派)を支援した織田・朝倉連合軍が「道三、許すまじ」と兵を挙げた、というのが簡単な背景です。

合戦は頼純の要請によって始まったとされています。



天文13年説と、天文16年説

稲葉山城を攻めたという「加納口の戦い(井ノ口の戦いとも)」の時期については、天文13年(1544)と天文16年(1547)の2つの説があります。

『享禄以来年代記』や小瀬甫庵の『信長記』は天文16年の戦いとしており、一方で『東国紀行』や『円興寺過去帳』、『美濃国諸旧記』などは天文13年のことと記されています。この他、『信長公記』に至っては年が記述されていません。

本当はどっちなのか、それとも二度に渡って合戦は起こっていたのかは、ハッキリしていません。現在放送中の大河ドラマ「麒麟がくる」では、第1回の放送時が天文16年。加納口の戦いはこの年に起こった出来事として描かれます。

※参考:美濃の要所マップ。色塗エリアは美濃国。青マーカーは美濃国内の城。

加納口の戦い(井ノ口の戦い)の展開は?

『信長公記』の内容

『信長公記』によれば、信秀は9月3日に尾張の国中の軍勢を集め、美濃へ攻め込みました。村々に火を放ちながら進み、9月22日には道三の居城である稲葉山城の城下に入り、村々を焼き払いました。

午後4時ごろに信秀は軍を撤退させ、半分が引き上げました。そうしたところ、道三の軍が攻めよせたために織田軍は崩れ、支えきれずに5000の兵が討死し、大敗を喫したといいます。その中には、信秀の弟の織田信康に、織田因幡守、青山与三左衛門、千秋季光、毛利敦元らがいました。

『信長公記』作者の太田牛一はこのころ織田家臣ではありませんでしたから、あまり詳細な記録ではありません。信秀が撤退したのは、道三軍が城下で待ち構えていて急襲したためであり、一気に崩れた信秀軍は引き上げざるを得なかった、とか。美濃と尾張の国境の木曽川へ逃れたところを追撃され、織田軍は多くの兵を失うことになりました。

肉親、家老を失った信秀にとっては大きな損害であったと思われますが、『信長公記』によれば信秀はその直後の翌月には三河にも出兵していて、連歌師の谷宗牧が信秀を訪ねた際も大敗して機嫌を損ねている様子はなかったといいます。

他の史料では…

『揖斐郡志』「徳山文書」によれば、天文13年(1544)の9月19日に赤坂(大垣市)で徳山次郎右衛門が道三軍に勝利し、道三は赤坂近辺の城を開城して退却した、とあります。

この内容について、郷土史家の横山住雄氏は著書『斎藤道三と義龍・龍興 戦国美濃の下剋上』の中で、道三軍が弱いと見せかけて稲葉山城に引き寄せる作戦だった、との見解を示しています。

年度はともかく、実際に『信長公記』では3日後にあたる9月22日に道三軍が稲葉山城で大勝しているので、矛盾はないようにも思えます。さて、実際はどうだったのでしょうね。

和睦のため、信長と帰蝶が結婚

数年間争った道三と信秀が和睦したのは、天文17年(1548)のことです。『信長公記』には「平手中務才覚にて」とあり、重臣の平手政秀の働きによって和睦が進められたことがわかります。

こうして、信秀の嫡男・信長と道三正室(小見の方)腹の帰蝶が縁組。ちなみに、帰蝶は土岐頼純を夫としていたとされますが、頼純はその前年に病死(道三の命で殺されたとも)しています。

『美濃国諸旧記』によれば、帰蝶の輿入れは天文18年(1549)2月24日となっているので、婚約からずいぶん急いで輿入れしたことがわかりますね。

和睦からの輿入れをこれだけ急いだのは、このころ駿河の今川氏の勢いが気がかりであり、信秀としては道三と今川義元が手を組んだらかなり困る、という焦りがあったものと思われます。

信長と帰蝶の政略結婚にはこのような背景があったわけですが、『信長公記』には輿入れしたのは「道三が息女」とあるだけで、これが帰蝶を指すかどうかは実際のところ不明なんです。

女性であることを鑑みても帰蝶はあの信長の正室…。その割に史料はとても少なく、謎の多い女性です。



【参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興』(戎光祥出版、2015年)
  • 谷口克広『尾張・織田一族』(新人物往来社、2008年)
  • 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。