高槻市出身の戦国武将 松永久秀の書状を新たに発見
- 2024/06/12
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【投稿】戦ヒス編集部
戦国武将・三好長慶の家臣で高槻市内の東五百住の出身と考えられている松永久秀の書状が発見され、調査の結果、これまで知られていなかった新発見の史料であることが分かりました。同館では、令和6年6月15日(土曜日)から新たに開設する三好長慶の居城で国指定史跡の芥川城と三好氏について紹介する常設展示「芥川城と三好一族」で、書状の実物を6月15日(土曜日)から7月15日(月曜日・祝日)まで展示します。
今回発見された書状は、東京の個人宅で見つかったもので、現在は高槻市立しろあと歴史館に寄託されています。調査の結果、三好長慶が芥川城主となる直前に出された新出史料であることが分かりました。書状は、三好長慶の重臣である松永久秀が天文22(1553)年7月30日、長慶に味方をする室町幕府の幕臣・伊勢貞助らに宛てたものです。
書状が送られる前年、対立関係にあった三好長慶と室町幕府将軍・足利義輝は和睦していました。しかし、この書状が出される直前、義輝は長慶と敵対する細川晴元と手を組む姿勢を明確にしました。そして、文書が出された翌月には、長慶は義輝を京都から追い落とし、芥川城(高槻市大字原)へ入城しました。久秀は書状の中で、書状が出される前日、将軍義輝が長慶と敵対する細川晴元方の武将に酒を下賜し、義輝が晴元と手を組む姿勢を示したという出来事について言及しています。なお、義輝が晴元方の武将に酒を下賜したという事実は当時の公家の日記にも記されており、これまでも知られていることでした。
今回発見された書状では、久秀がそのことに対して「大したことはない」との強い姿勢を見せていることが分かります。また、久秀は書状の中で、主に三好方の各地の勢力の様子を伝えるとともに、伊勢貞助らに京都の様子を立ち聞きして伝えるよう依頼しています。
本書状は、三好方の動向を知ることができるともに、畿内の緊迫した政治状況の一端がうかがえる大変貴重な史料です。高槻市立しろあと歴史館では、三好長慶の居城で国指定史跡の芥川城と三好氏について紹介する常設展示「芥川城と三好一族」を6月15日(土曜日)に開設。これに合わせて、6月15日(土曜日)から7月15日(月曜日・祝日)まで、本書状を実物展示します(以降は複製品の展示)。実物の書状は、期間限定の展示となりますので、ぜひこの機会に同歴史館へお越しください。
参考情報
書状に関連するできごと
- 天文17年(1548) 三好長慶が主君・細川晴元及び晴元の側近・三好宗三に対して挙兵する。
- 天文18年(1549) 江口の戦い(大阪市東淀川区)で長慶が勝利し、宗三は敗死、晴元は将軍足利義輝らを伴って近江(滋賀県)に逃れる。
- 天文21年(1552) 義輝と長慶が和睦。晴元は出家して若狭(福井県)へ。
- 天文22年(1553)3月 義輝が長慶と対立し、霊山城(京都府東山区)に入城する。(義輝と長慶の対立が表面化)
- 同年7月28日 晴元方の武将が義輝の側近に迎えられる。
- 同年7月29日 晴元方の武将が義輝より酒を下賜される。(義輝が晴元と正式に手を組み、長慶に敵対する姿勢を明確にする)
- 同年7月30日 本書状が出される。
- 同年8月1~5日 兵を起こした長慶が圧勝し、義輝・晴元は近江へと落ち延びる。
- 同年8月25日 芥川城に籠る晴元方の芥川孫十郎を破り、長慶が芥川城に入城する。
常設展示「芥川城と三好一族」
【開設日】令和6年6月15日(土曜日)
【展示内容】
発掘調査で見つかった建物の部材や生活道具、長慶の家臣と伝わる家に伝来した槍、松永久秀の肖像画(実物展示は7月15日まで。以降はパネル展示)など
【料金】
無料
限定デザインの武将印「松永久秀」
常設展「芥川城と三好一族」の開設にあわせ、6月15日(土曜日)から、今回発見された松永久秀書状の一部がデザインされた、限定デザインの武将印「松永久秀」を販売します。※ 1枚300円。500枚限定。なくなり次第終了
※ 高槻市立しろあと歴史館の窓口でのみ販売(郵送販売不可)
関連ホームページ
・しろあと歴史館 常設展示「芥川城と三好一族」を開設しますhttps:// www.city.takatsuki.osaka.jp/site/history/121335.html
・武将印「松永久秀」の限定デザイン販売
https:// www.city.takatsuki.osaka.jp/site/history/125801.html