【岐阜県高山市】戦国武将金森長近生誕500年記念事業『火縄銃発砲実演と甲冑劇』を開催しました
- 2024/10/21
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【投稿】戦ヒス編集部
●金森長近は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑に仕えた戦国武将で、飛騨高山の今に残る古い町並の礎を築きました。岐阜県高山市では、金森長近生誕500年の記念事業として火縄銃の発砲実演と甲冑劇を開催し、市民や観光客は戦国時代の雰囲気を体感しました。
金森長近は、大永4年(1524)美濃国土岐郡多治見郷大畑村(現岐阜県多治見市)に生まれ、天文10年(1541)尾張の織田家に仕え、織田信長の養育係になり、長篠の戦いなど織田家の主要な合戦に参陣するなど活躍しました。織田信長の死後は豊臣秀吉に仕え、飛騨国攻略の功績により国主として飛騨国3万石余りを与えられました。天正18年(1509)から高山城の築城と、現在観光地としても人気を集める飛騨高山の町並みの基礎を作りました。秀吉の死後は徳川家康に仕え、関ケ原の合戦に参陣するなどしたのち、慶長13年(1608)に亡くなりました。
今年、金森長近が生誕500年を迎えたことを記念して、高山市では金森長近特別展の開催のほか、記念事業として3月に刊行した金森長近マンガの原画展、長近が築城した高山城跡をめぐる見学会を実施しました。令和6年9月22日(日・祝)には、記念事業の締めくくりとして、長近ゆかりの地である高山城跡にある城山公園で火縄銃の発砲実演と長近の生涯を紹介する甲冑劇を行い、市民や観光客に金森長近をPRしました。
長近は天正3年(1575)に参陣した長篠の戦いにおいて、鉄砲隊とともに武田方の鳶ヶ巣山砦を攻めたとされています。また、長近の墓所がある京都の大徳寺の塔頭龍源院には長近所有と伝わる火縄銃があり、長近と火縄銃との関係について理解を深め、長近公が生きた戦国時代雰囲気を感じてもらおうと火縄銃発砲の実演を企画しました。当日は、市街地近くの城山公園にて、東海圏で広く火縄銃の発砲を行っている経験豊富な愛知県古銃研究会の会員の方々が、射手5人、指揮者1人、陣方2人の8人で実演しました。甲冑をまとった5人の射手は旗印を持ち、指揮者の指示に沿って構えや射法を次々と変えながら、近世の代表的な砲術である稲富流などの発砲を披露しました。
城山公園に響く轟音、火縄を用いた点火、発砲後に残る火薬の香りと煙、発砲後の陣方による太鼓と法螺貝の音で会場は盛り上がり、大きな拍手に包まれました。
火縄銃発砲終了後には、金森長近と金森可重父子が駆け付け、火縄銃のメンバーと甲冑劇の演者など総勢30名以上の武者行列が飛騨高山まちの体験交流館まで練り歩きました。多くの観光客で賑わう古い町並では、戦国時代にタイムトリップしたかのような風景に、沢山の人が興奮してカメラを向けました。
飛騨高山まちの体験交流館で披露された甲冑劇「金龍伝 野に咲く躑躅(つつじ)のように」は、刊行した金森長近マンガの内容を基にシナリオを制作し、長近の生涯のうち今川氏との争いから飛騨平定後までを中心に、迫力ある見事な殺陣を披露しました。
主君信長と過ごした場所と同じように、戦乱で荒れた飛騨を躑躅が咲き誇る場所にするという長近の平和への願いが込められたタイトルとなっており、その思いを長近が語るシーンもありました。他にも可重と畑六郎左衛門との一騎打ち、飛騨平定後の反乱分子と対峙する長近のシーンでは、市民だけでなく外国人観光客もその迫力と息を飲む状況に圧倒されていました。
令和6年は金森長近生誕500年に合わせて様々な記念事業を実施しましたが、これからも飛騨高山ゆかりの戦国武将金森長近を広く知っていたただくために積極的なPRを進めます。
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