加藤清正って何をした人?どんな人?

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加藤清正(かとう きよまさ、1562~1611)は何をした人(どんな人)でしょうか。次のうち、もっとも適切なものを選んでください。 ( 正解率は 82 % )

正解!

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 ざんねん…

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答えは「秀吉の家臣として文禄・慶長の役で武功をあげた」

  回答内訳

247人 が回答済です

武田信玄の家臣として川中島の戦いで武功をあげた(4回答)
1%
信長の家臣として桶狭間の戦いで武功をあげた(10回答)
4%
秀吉の家臣として文禄・慶長の役で武功をあげた(203回答)
82%
家康の家臣として大坂の陣で武功をあげた(30回答)
12%

※未回答での閲覧回数は 18回

 解説

 加藤清正は、安土桃山時代から江戸時代初期の大名で、幼い時から豊臣秀吉に仕えた子飼いの武将として、秀吉の天下取りに尽くし、朝鮮出兵の文禄・慶長の役をはじめ、戦いの場で武功を上げ続けてきた人物です。

 清正は、永禄5年(1562)に尾張国中村(現在の名古屋市)で生まれ、幼名は虎之介と言います。織田信長の家来だった秀吉とは母方の親戚関係にあり、その縁で秀吉に仕え、数多くの戦場を経験していきました。清正が名を上げたのは、信長の後継者を巡って秀吉と柴田勝家が対決した、天正11年(1583)の賤ケ岳の戦いです。清正は、同僚の福島正則らとともに獅子奮迅の活躍を見せ、のちに「七本槍」と呼ばれ、出世のきっかけを作ったのです。

 その後も秀吉の天下取りの戦いで武功を重ねていった清正は、天正16年(1588)に肥後(現在の熊本県)の北東部半国の大名となります。そして、熊本の地に城を築くことにしました。

 天下統一を果たした秀吉の次の目標は、中国の明の制圧でした。文禄元年(1592)の文禄の役に清正は出兵し、朝鮮半島を進軍。その戦いぶりから猛将と恐れられた清正には、「虎退治をした」との逸話が作られるほどでした。進軍を続けた清正でしたが、朝鮮出兵を終わらせたかった石田三成らによって謹慎処分を命じられます。ところが和平交渉は決裂し、秀吉は再度朝鮮出兵を決断。慶長2年(1597)に清正は再び出兵を命じられます。清正は、蔚山(いさん)城の戦いで明軍や朝鮮軍を退ける活躍を見せますが、秀吉の死によって戦線は膠着状態となり、日本軍は撤退することになりました。

 秀吉の死後、清正は三成らとの対立を深めながら徳川家康に接近していきます。天下分け目の「関ケ原の合戦」の時は、九州で反徳川方を鎮圧する働きぶりを見せ、論功行賞によって肥後一国54万石の大名となるのです。

 家康が幕府を開いてからも、清正は秀吉の恩義を忘れることなく、後継者である豊臣秀頼と豊臣家を支えていきます。慶長16年(1611)に家康が上洛するのを機に、秀頼と家康の会見を実現させました。しかし会見の直後、肥後へ戻る途中の船の中で清正は病に倒れ、そのまま亡くなってしまったのです。清正という強力な後ろ盾を失った豊臣家は、その4年後に滅亡する運命をたどったのでした。

 加藤清正は、勇猛果敢な武将のイメージが強いですが、天下の名城である熊本城を築き上げるなど、藤堂高虎と並ぶ「築城の名手」と言われています。また、肥後藩主時代には治水事業や新田開発でも優れた手腕を発揮し、熊本の基礎を作った人物として、今も「清正公さん」と親しまれているそうです。


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