藤原道長の邸宅「土御門第」 天覧競馬開催、孔雀も飼育

土御門第跡
土御門第跡
 藤原道長の邸宅・土御門第(つちみかどてい)はその栄華を象徴し、政治ドラマの舞台にもなった豪邸です。道長の長女・彰子が一条天皇の皇子・敦成親王(後一条天皇)、敦良親王(後朱雀天皇)を出産した状況を記録した『紫式部日記』の舞台であり、道長が「望月の欠けたる事も無し」と和歌で自画自讃しながら十六夜(いざよい)の月を眺めた場所です。そうかと思えば、火災で全焼したこともありました。土御門第はどんな邸宅だったのか、解剖していきましょう。

「土御門第」妻・倫子の父から譲られ、南側を拡張

 藤原道長は平安京の中にいくつかの邸宅を所有していましたが、メインの邸宅は土御門第です。この邸宅は平安京の東端、かなり北の方にありました。北は土御門大路に、南は鷹司小路に面していましたが、南に拡張した後は近衛大路に面しました。

 平安京の中では東側の左京、それも北側が一番の高級住宅街で、錚々たる顔ぶれの貴族が屋敷を構えていました。

土御門第など、藤原道長の邸宅の位置(『本邦歴史附図』を元に加工。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
土御門第など、藤原道長の邸宅の位置(『本邦歴史附図』を元に加工。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

土御門第の別称「上東門院」「京極殿」

 「第」は「邸」と同じ意味。「殿」も屋敷などの建物を意味し、そこから家主の尊称となっていきます。土御門第は「土御門殿」「京極殿」「上東門院」などとも呼ばれます。

 「京極殿」は東側を東京極大路に面していることからの呼び名で、「上東門院」は土御門大路が大内裏の上東門に突き当たることからの呼び名。ちなみに、道長の長女・彰子が女院となったときの院号(呼称)が、邸宅にちなんだ「上東門院」です。

 なお、村上源氏に相続された屋敷「土御門第」はこの道長邸のはす向かい。また、平安時代後期の武将・源頼政の屋敷「京極殿」は東京極大路に面した平安京東端ですが、道長邸よりも南にありました。同じ呼び名でも時代によってまったく違う場所を指していることがあります。

左大臣・源雅信から婿の道長に相続

 土御門第は元々、藤原道長の妻・倫子(ともこ)の父である左大臣・源雅信の邸宅。源雅信の異名が「土御門左大臣」「鷹司左大臣」「一条左大臣」とされるのも所有する邸宅にちなんでいます。さらに元をたどれば、源雅信の妻・穆子(むつこ)、その父・藤原朝忠が所有していた邸宅でした。
永延元年(987)12月、道長は倫子と結婚します。しばらくは通い婚でしたが、倫子の妊娠判明後は土御門第で道長夫婦が同居。源雅信夫妻は一条第に移ります。

寝殿造り 対屋は4棟、邸内に仏堂も

 貴族の邸宅は寝殿造り。土御門第は現存していないので位置関係は推定ですが、敷地北側の中央にある主要な建物「寝殿」は家の主人が生活し、客と対応する場所です。寝殿中央の部屋が「母屋(もや)」で、その周囲に「廂(ひさし)」という細長い部屋があり、さらにその外側を「簀子(すのこ)」という縁側が囲みます。寝殿の北や東西にサブの建物「対屋(たいのや)」があり、土御門第には、正室の居間である「北対」のほか、「東対」「西対」「西二対」がありました。

 それらは屋根付きの「渡殿(わたどの)」など廊(連絡路)でつなぎます。寝殿の南面には庭が広がり、中島が浮かぶ広い池もあります。西対から廊の先に御堂(仏堂)と中島の上に建つ舞台があり、御堂と舞台ではさまざまな法会が営まれました。また、納涼、観月、酒宴などに使う水上建築「釣殿(つりどの)」の役目もあったと思われます。

※参考:京都・土御門第跡の紹介動画(読売新聞オンライン動画)

火災多い平安京 摂関家伝領の朱器台盤も被災

 藤原道長は長保元年(999)までに、大江匡衡から南の1町を買い取って土御門第を拡張。馬場、馬場殿などを増設しました。貴族の邸宅は敷地1町が基本。1町は約120メートル四方、約1万4400平方メートルで、拡張された土御門第はその2倍の敷地面積がありました。

拡張した南側に馬場殿 馬術競技を観覧

 土御門第には敷地内の北東にも馬場がありましたが、南の馬場は馬場殿を備えたゆったりしたスペースで、馬術訓練だけでなく、競馬(くらべうま)などの馬術競技を開催しました。馬場殿は競技を見物するための施設です。

 長保元年(999)2月20日、多くの貴族を招き、新しい馬場を披露。馬を走らせています。競馬は2頭の馬による競走で、相手の邪魔をするなどして先着を競い、勝負とともに舞楽も披露されます。寛弘元年(1004)5月27日の花山法皇御幸、寛弘3年(1006)9月22日の一条天皇行幸、長和2年(1013)9月16日の三条天皇行幸の際にそれぞれ競馬を開催しています。

500軒被災の大火で延焼 再建に2年

 平安京は火事が多く、藤原道長の姉・詮子(あきこ)が滞在していた長保2年(1000)1月9日には西対の北廊が放火されました。円融天皇の女御で一条天皇の母である詮子は、女院として東三条院の院号を賜った後、主に土御門第で暮らしました。

 また、『日本紀略』によると、長和5年(1016)7月20日、土御門第の西隣、道長の家司(執事)・藤原惟憲(これのり)の屋敷から出火。強風で火の回りが早く、約500軒もの家屋に延焼する大火となりました。土御門第も寝殿などが焼失し、摂関家伝領の朱器台盤が被災。朱器台盤は朱塗りの台盤(テーブル)と什器(じゅうき、食器など)のセットで、藤原氏のトップである藤氏長者に伝承された家宝です。『御堂関白記』では7月21日となっていますが、灰となった焼け跡から真っ先に朱器台盤を取り出させました。

 この災難に、多くの受領(地方官)、すなわち中級貴族たちが競って道長に見舞いの品を贈呈。中でも道長側近武将・源頼光は生活に必要な品々を取りそろえます。土御門第再建は2年後の寛仁2年(1018)6月ですが、この時も源頼光の再建祝いは見物人が群がるほどの豪華さで、すさまじい財力と忠誠心を見せつけます。

「小南第」 庭で孔雀を飼育 土御門第敷地内の別宅

 拡張された土御門第の敷地内で、南端にあったのが別宅・小南第です。寛弘3年(1006)8月頃、建てられ、寝殿、客亭、東廊などの建物があり、庭もありました。

 土御門第は後一条、後朱雀、後冷泉と3代の天皇の里内裏になりました。里内裏は、火災などで内裏の再建、修復期間中、天皇の生活する場所として使われた貴族の邸宅です。後一条、後朱雀天皇の母は道長の長女・彰子で、後冷泉天皇の母は道長六女・嬉子。天皇の出生地であり、生母の実家が期間限定の皇居となったのです。土御門第が里内裏となった場合など、道長は寝殿を立ち退き、小南第で暮らしました。また、物忌みや神事などでも小南第を使っています。

孔雀の産卵に興味津々 道長の観察日記

 藤原道長は小南第の庭で孔雀(クジャク)を飼いました。この孔雀は中国・宋の商人が献上し、大宰大監・藤原蔵規(くらのり)が都に持参。その後、道長に下賜されました。

 道長の日記『御堂関白記』には、長和4年(1015)4月頃から孔雀の産卵に関する記事が散見されます。孔雀が卵を産むまで性別が分からなかったといい、雄がいないのに卵を産むことを不思議に思いますが、中国の書物『修文殿御覧』を読んで孔雀が無精卵を産むことを知り、「本に書いてあることは本当だ」と感心しています。

「東三条第」「枇杷殿」「二条第」…土御門第だけじゃない

 藤原道長は土御門第のほかにも多くの邸宅を所有していました。「東三条第」「枇杷殿」といった藤原北家の有力者に相続されてきた邸宅を手に入れます。また、晩年の生活の場は土御門第の東隣に建立した法成寺。無量寿院として最初に建てた阿弥陀堂をはじめ、広大な敷地に講堂、経蔵、金堂など多くの堂舎を建てた当時、最大級の寺院です。

「東三条第」南北2町、独立した南院も建造

 東三条第(東三条殿)は摂関家嫡流に伝領されてきた財産。南北2町にまたがり、北を二条大路、南を三条坊門小路、西側を西洞院大路に面した場所にありました。藤原道長は主に土御門第で暮らしている時もこの東三条第を改築し、寛弘2年(1005)2月の改築完成の儀式は安倍晴明が仕切っています。

東三条殿の復元図(出典:wikipedia)
東三条殿の復元図(出典:wikipedia)

 居貞親王(三条天皇)の御所や一条天皇、三条天皇の里内裏にもなりました。敷地内に南院という独立した建物もあり、寝殿などが一条天皇の里内裏になった時は居貞親王が南院に移りました。冷泉上皇が崩御までの晩年を過ごしたのも南院です。

「枇杷殿」道長次女と三条天皇の里内裏

 枇杷殿は、「枇杷中納言」と呼ばれた藤原長良やその三男で藤原良房の養子となった摂政・関白の藤原基経、基経の次男の「枇杷左大臣」藤原仲平といった藤原氏有力者が相続してきた邸宅。敷地内にビワが植えられていたことから枇杷殿と呼ばれました。南は近衛大路、東は東洞院大路に面した1町と、近衛大路を挟んだはす向かい、室町小路と烏丸小路の間の1町の2カ所を枇杷殿とする説があります。

 藤原道長が所有していた頃は一条天皇、三条天皇の里内裏ともなります。三条天皇は退位後も中宮・妍子(きよこ、道長次女)と居住。退位翌年に崩御しますが、妍子は一人娘の禎子内親王とともに住み続けています。

「二条第」改築工事で障子の位置まで指示

 二条第は二条大路北、東洞院大路西にありました。元々、源相方の所有で、藤原道長から小一条院(三条天皇の第1皇子)に譲渡されますが、再び道長の管理となります。道長四女で後一条天皇の中宮となった威子(たけこ)のため改築され、『御堂関白記』によると、道長が工事の進捗状況を細かく確認し、障子を立てる位置まで指示しています。

 寛仁2年(1018)3月、威子の入内の儀式が行われますが、6月、道長は二条第から修復された土御門第に移ります。長男・藤原頼通が居住した時期もあり、その後、威子からその娘・章子内親王、大江匡房へと伝領されます。

 また、道長別宅として源雅信の邸宅だった一条第があります。一条大路南、高倉小路東にあり源雅信の死後は妻の穆子が伝領。その後、藤原道綱の子で道長の養子・兼経が伝領しますが、実質的に道長が管理し、方違えの際などに利用しました。

おわりに

 『紫式部日記』には、寛弘5年(1008)、中宮・彰子が土御門第に里帰りして無事誕生した敦成親王(後一条天皇)を抱き上げ、時におしっこを引っかけられて大喜びする藤原道長の姿があります。

 その後一条天皇の中宮となったのが道長四女・威子。寛仁2年(1018)10月16日、威子を中宮とする儀式の後、土御門第で祝宴が開かれ、藤原道長が和歌を詠みます。

「この世をば我が世とぞ思ふ望月の 欠けたる事も無しと思へば」

 自身の栄華を欠けることのない満月にたとえ、得意の絶頂だった道長はこの時53歳。前年に摂政を辞任し、藤原実資の『小右記』では「太閤」と呼ばれている時期です。即興だと断った和歌で土御門第での30年をしみじみと振り返ったのかもしれません。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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