「表は極楽、裏は地獄」吉原の裏の顔

 1日に千両の金が動くと言われ、最高位の遊女・花魁(おいらん)の元には一目顔が見たいと、江戸で指折りのお大尽(= 遊里で大金を使う客のこと)が大枚を積んで押しかける。男たちの夢の国であった吉原ですが、華やかさの裏の顔も持っていました。

吉原の底辺羅城門河岸と浄念河岸

 吉原大門をくぐり、賑やかな仲之町通りから折れて木戸を抜け、各町の表通りを辿って行くと、両側には妓楼の張見世(はりみせ。格子の内側に遊女がずらりと居並ぶ場所)で遊女たちが顔を揃え、客の指名を待っています。

『吉原格子先之図』(太田記念美術館所蔵、出典:wikipedia)
『吉原格子先之図』(太田記念美術館所蔵、出典:wikipedia)

 三味線の音色や遊女の美しい着物に目を奪われ、道を進んで行くうちに、あたりの様子が変わって来ます。店の構えはだんだん小さくなり、突き当りにはお歯黒どぶに沿って裏長屋のような粗末な建物がずらりと並んでいます。これが大門左手の羅城門河岸(らじょうもんがし)と右手の浄念河岸(じょうねんがし)です。

 この辺りが“局見世(つぼみせ)”とか“切見世(きりみせ)”と呼ばれる、吉原の最下級遊女たちが商売をする場所です。松葉長屋とか三日月長屋の名が残る長屋造りの建物で、間口六尺(1.8m)の畳二畳ほどしかない部屋が、狭い路地に面してずらりと並んでいます。二畳の部屋を占領するように蒲団が敷かれますが、普通の客には敷布団しか使いません。滅多にない事ですが、泊まるような客の場合だけ掛布団も使いました。

※参考:新吉原の地図。画像下側に吉原大門が入口。(『川柳吉原誌』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
※参考:新吉原の地図。画像下側に吉原大門が入口。(『川柳吉原誌』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 “切見世”の名前の由来は男女の事を一切(ひときり)、つまり線香1本が燃え尽きるまでの十分程度の交渉で終わらせねばならないからです。“切見世”は“チョンの間”とも呼ばれましたが、これも同じ意味です。線香1本で終わらなければ「お直し」と言って延長も出来ますが、結局3倍ほどの値段を取られる仕組みでした。

 この中でも最下層は東の河岸にある“百文河岸”で、名前の通り一度の交渉が100文から50文、約1500円から750円です。仲之町通りの華やかな大見世や中見世で高級・中級の遊女の顔を拝み、飾り付けを見物して吉原の風情を味わう、そのあと実際の事を致すのは羅城門河岸や浄念河岸の安女郎相手、こんな客が多かったのです。

 当然厠(=トイレ)も無く、客も女郎も道端で用を足し、あたりには異臭が立ち込めます。人一人がやっと通れる道を塞いで用を足すのですから、その間は歩く方が立ち止まって終わるのを待ちました。性病に罹っている女郎がほとんどで、そんな女郎は「当たれば死ぬ」として “鉄砲女郎”と綽名されました。

吉原遊女の年齢制限

 もちろんこの辺りに来る客は茶屋など通すはずもなく、女が自分の部屋の前に陣取って、あるいは開け放った土間に座って、路地を歩く男を誘い込みます。

「お屋敷さん、ちょっとちょっと」

「羽織さん、ちょっとちょっと」

とかいうように声をかけ、路地は狭いため客で混雑して歩きにくくなると、金棒を持った路地番の男が

「さぁ、まわろまわろ」

と言って男たちを追い立てます。

 ここで商売する女郎は、ほかの岡場所が手入れにあい、奉行所に捕まった女が安く買われて来る、あるいは年を取って表の吉原で働けなくなった女郎が流れ着きました。吉原は他の岡場所に比べて高額の揚げ代を取りましたが、それでも客がやって来るのは若い遊女を揃えているからです。

 吉原遊女として稼げるのは27歳までで、年季が明けても故郷にも帰れず身請けなどは雲の上の出来事。かつては大見世の高級遊女であっても、どこにも行き場のなくなった女郎が東西の河岸に墜ちてきました。

ご法度の足抜けと心中

 身請けしてもらえずに生きて吉原から出る道は一か八かの足抜けしかありません。足抜けの方法は2つ、1つが変装して大門から出る女之介ですが、こちらは四郎兵衛小屋の番人の眼が光っており、ほとんど成功の見込みはありません。もう1つの道が吉原の周囲をぐるりと囲む”お歯黒どぶ” を越える方法です。

 ”お歯黒どぶ”とは吉原遊郭を取り巻く堀のことですが、初期のころは5間(約9m)もあったと言います。だんだん狭くなり、中期には2間(約3.6m)にまでなりましたが、それでも曲輪の中でしか暮らしていない遊女がここを超えるのは身のすくむ思いでした。この方法を使うのはたいてい情夫と示し合わせての足抜けですが、すぐに大勢の追手が掛かり、なかなか逃げおおせるものではありません。

 足抜けも諦め、心中をえらぶ遊女と客もいました。しかし江戸幕府も心中には厳しい態度で臨み、死骸は埋葬を許さず、もし生き残った場合には日本橋の元で3日間晒しものにしたあげく、非人の身分に落とします。吉原でも客との心中はよく起きており、多くは人が寝静まったころに寝床の中で剃刀で首筋を切ります。

 心中は妓楼(ぎろう。遊女を置いて客を遊ばせる家のこと)にとっては大損です。商品の遊女を失い、血で汚れた蒲団は使い物にならず、部屋の模様替えもせねばなりません。評判が広まれば客足が落ちる心配もあります。

 そして足抜けや心中に失敗した遊女には、恐ろしい折檻が待っていました。

折檻

 ただ、折檻は足抜け失敗のみに行われるのではなく、長く客のつかない遊女・仮病を使って怠けていると思われた遊女・上客の機嫌を損ねて逃がしてしまった遊女、さらには楼主やその女房や遣りて婆の言いつけを聞かずに逆らう遊女にも行われます。つまり、これらの人間の気に入らない遊女が居れば恣意的に折檻できました。

 実際に折檻をするのもこれらの人間で、よく行われるのは木の棒で打ち据えるです。丸裸にして縄で縛り、水を浴びせたり、雪の中に放置したり、といったことも普通に行われました。軽いところでは厠や不潔な場所を掃除させたり、飯を食わせなかったりが常套手段です。

 足抜けや心中を企てて失敗した時の折檻は特に厳しく、丸裸にして手拭いを猿ぐつわに噛ませ、体を後ろ手に縛りあげて梁へ吊るし、薪で打つ人間が疲れるまで打ち据えます。商品ですから疵をつけては元も子もありませんが、時には度が過ぎて責め殺してしまうこともありました。

おわりに

 「生まれては苦界、死しては浄閑寺」

 一目顔を見るだけでも何十両も積まねばならない花魁と50文で体を売る女郎、その両方が暮らしているのが吉原でした。そしてその花魁も身請け話がまとまらずに年を重ねれば、地獄河岸に墜ちて行きました。

 亡くなっても親元や親族に知らされることはなく、筵に包まれ、大八車で荒川区南千住の浄閑寺に運ばれるだけです。


【主な参考文献】
  • 安藤優一郎『江戸の色町遊女と吉原の歴史』株式会社カンゼン/2016年
  • 永井義男『吉原の舞台裏のウラ』朝日新聞出版/2020年
  • 永井義男『図説吉原入門』学研/2008年

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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