大坂夏の陣…戦端を開いた豊臣方が、大和郡山・堺・岸和田の攻防戦で大惨敗した経緯とは
- 2024/11/27
大坂夏の陣はじまる
慶長19年(1614)にはじまった大坂冬の陣は、豊臣方の真田信繁ら牢人衆の活躍もあり、戦いは膠着状態となった。やがて、豊臣方、徳川方から和睦の機運が生じ、交渉の場が持たれることになった。こうして両者は和睦を交わしたが、豊臣方には厳しい条件がつけられた。大坂城は惣構と堀に囲まれていたが、それらを破却、埋めることが和睦の条件になったのである。豊臣方は、泣く泣く従うより他がなかった。
もう一つの条件は、大坂城に大挙して押し寄せた牢人衆を召し放つ(解雇する)ことである。しかし、大坂城から牢人衆が退去することはなく、逆に集まる始末だった。
というのも、豊臣家の家臣の中には、反徳川を強く主張するグループがいたからだった。大坂城に牢人が集まっていることは、ただちに徳川方に伝わった。むろん、報告を耳にした徳川家康は激怒した。
こうして、家康と子の秀忠は、豊臣家を滅ぼそうと決意すると、各地の大名に出陣を要請し、大坂夏の陣がはじまったのである。豊臣家は大坂城が惣構などが破却され、「裸城(防御施設がない)」になったので籠城戦を諦め、外に打って出るよりほかがなかった。
大和郡山における戦い
慶長20年(1615)4月26日未明、豊臣方の大野治房は後藤基次と2千の兵を率いて大和国へ出陣した。徳川方が河内方面に在陣したことを受け、奈良から迂回して襲撃を試みたのである。治房は大和国へ侵攻すると、徳川方の筒井定慶が籠もる郡山城(奈良県大和郡山市)を攻撃した。定慶は1千人の兵で籠城していたが、兵力で劣っていたので、ただちに城を放棄して逃亡したのである(『駿府記』)。治房は首尾よく郡山城を奪取すると、勢いに乗じて翌27日に奈良に向かった。奈良で守備を任されていたのは、徳川方の水野勝成である。これを知った治房は、戦うことなく後退し、ついに郡山城まで撤退した。その後、治房はせっかく奪取した郡山城を放棄すると、放火しながら大坂へ帰陣したのである(『大坂陣日記』など)。
治房が大坂へ戻ったのは、手勢が少数だったことに加え、奈良方面で交戦することで、滞在期間を長く取られるのを嫌ったためだろう。治房の大和侵攻によって、郡山だけでなく、龍田(奈良県三郷町)、法隆寺(同斑鳩町)は火の海になったという。法隆寺は堂宇がことごとく焼き払われるなど、被害が甚大だった(『駿府記』)。
堺・岸和田における攻防戦
4月28日、大野治房は塙直之ら諸将を率い、約3千の軍勢で大坂城を出陣した。先鋒隊の塙直之は、徳川方の小出吉秀が守備する岸和田城(大阪府岸和田市)を攻撃し、一進一退の攻防を繰り広げた。治房は堺(同堺市)に入り、徳川方に味方したという理由だけで堺を焼き払った。自治都市として知られた堺も、例外なく戦火に呑み込まれた。治房は堺だけでなく、住吉大社などにも放火した。豊臣方が堺や住吉などの港湾都市を攻撃した理由は、徳川方の流通経路を遮断し、徳川方が兵糧や武器を運び込むのを阻止しようとしたからだった。一方、徳川方には水軍を率いる向井忠勝が海上防衛を行い、豊臣方の兵糧船を拿捕したという。
『日本切支丹宗門史』によると、当初、堺は豊臣秀頼の保護下にあった。いざ合戦が始まると、秀頼の軍勢は食糧を強奪し、堺に金品を要求したという。しかし、家康が堺に侵攻することは、十分に予測できたので、堺の人々は秀頼に与したことを家康が知って、怒りを受けることを恐れた。そこで、徳川方の兵を堺に引き入れたが、そのことが秀頼の逆鱗に触れて、堺は結果的に焼き払われたという。
敗北した豊臣方
互いに一進一退の攻防を繰り広げたが、この戦いで敗北を喫したのは、豊臣方だった。豊臣方は一揆勢と協力し、浅野長晟(ながあきら)の軍勢を挟撃しようとした。しかし、長晟のほうが一枚上手で、先に一揆勢を鎮圧することに成功し、その軍勢は信達(大阪府泉南市)まで兵を進めたのである。大野治長の家老は、秘密裏に紀伊国日高郡に軍勢を派遣したが、山口(和歌山県印南町)で長晟の家臣に見つかり、1人残らず討伐されたという(『大坂陣山口休庵咄』)。おそらく、治長は一揆との協力態勢を生かすべく、紀伊国内で反浅野派を蜂起させようと考えていたかもしれないが、それは見事に失敗したのである。
豊臣方の失態は、これだけではなかった。4月29日、治房の家老の北村甚大夫、大野弥五左衛門ほか30余名が、信達(大阪府泉南市)で捕縛された。北村のその後は不明であるが、大野は殺されたという。同日、豊臣方の治房・治胤兄弟、塙直之らが率いる約3千の軍勢は、同じ信達で長晟が率いる軍勢と戦った。
しかし、豊臣方は長晟の軍勢に敗北し、撤退したのである(『駿府記』)。緒戦で敗北を喫した豊臣方は、徐々に劣勢に追い込まれた。次に、戦いの舞台は樫井(大阪府泉佐野市)へと移ったのである。
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